5 / 42

第5話

  2016年1月1日、元旦。 「「明けましておめでとうございます」」 「「本年もよろしくお願いします」」   判で押したような変わり映えのしない新年の挨拶が   あちこちで交わされている。   が、倫太朗達医療従事者は新年でもお正月気分で   浮かれている暇はない。   倫太朗は今日から救急救命室=ERへ転属になった。   前期臨床研修開始から、   内科を皮切りに実務研修を始め、   外科・産科・小児科と順に巡って来て、   このERが最後の研修場となる。   ここでの研修を大方終えたら自分の専攻したい   診療科を決めなければいけない。      朝の8時半診療開始、   既にお昼までで**件の救急をこなしてきた――。   初詣客の雑踏でお年寄りが転倒し、   手や足を軽く捻挫してしまったというケースが   3件。   乳幼児の誤飲が3件。   急性盲腸炎(アッペ)の手術が1件。   凍結した路面で滑って転び、単純骨折が1件。   残りは全て、正月で浮かれ過ぎた人々の   急性アルコール中毒症だった。   今までの患者さん達は幸い大事には至らず、   帰路は皆さん自力で帰って行かれた。   何でもない、当たり前の日常風景のように   思えるけど。   時には俺ら医師の力及ばず、物言わぬ人型となって   帰路に着かれる方々もいる。   ―― そんなERへ異動してちょうど1週間が   経ったある日。   東の空がゆっくりと白み始めている午前*時。   院の通用口で。   黒塗り・ロングボディー・スモークドグラスの車を   ERのスタッフ及び手すきのヘルプスタッフ達が   深々と頭を下げ見送る。   車が走り去った後、院内へ戻る時も皆は   終始無言だ。   ERの主任(チーフ)ドクター、各務大吾 ――   何と! あの鬼束柊二の長兄 ―― が、   手近のナースへ訊ねた。 「―― 倫はどうした?」 「あぁ、彼ならまだトイレから出てこられないみたい  です」 「ったくぅ、情けねぇ奴っちゃな」 「もう、大吾センセってば、そんな事言っちゃ可哀想  ですよ」 「ちょっくら行って、活、入れてくっか」  *****  *****   初めて直面した訳じゃないのに、   搬送患者の死に激しく動揺し、   我を見失ってしまった。   患者は臨月の妊婦さんで ――   搬送中の救急車内で何度も心肺停止状態に   陥っており。   病院到着と同時にお腹の胎児の死亡が確認され、   それから約1時間後、母親もまるで眠るように   息を引き取った。   心ならずも、あの妊婦さんの姿に10年前の   千早姉ちゃんをW(ダブ)らせてしまった。   あの時、赤ちゃんの生命は救えなかったものの、   基礎体力の差で姉ちゃん自身は一命を取り留めた。   あの時、処置に当たった主任医師の父さんに   姉ちゃんがぶつけた言葉が、今さら蘇る――。   『医者の癖に赤ちゃんの生命すら助けられ    なかったの?! 信じてたのに……っ。    私の赤ちゃん返してよっ! 返してぇぇっ』   姉ちゃんの慟哭は何時止むともなく、   静かな病院内に響いていた……。   もうそろそろ皆んな、お見送りから戻ってくる。   それに、もうすぐ日勤チームへの業務引き継ぎも   あるから、自分もさっさと戻らなきゃいけない……。   けど、そう焦れば焦るほど。   足はまるで鉛がついたみたいに重くなって。   吐いて、吐いて……思いっきり吐いて、   もう、胃の中の胃液まで全部空っぽって   思える位に吐いて。   大方すっきりした後、   口をゆすぎ顔を洗っている所へ   大吾先生が入って来た。 「あ、チーフ、ご迷惑おかけしました」 「―― ん、顔色は戻ったな。  今日のカンファレンスは出なくていいから  早う帰って休め」 「自分ならもう大丈夫です」 「夜勤明けでも真っ直ぐ帰れるなんて滅多にねぇんだぞ  人の厚意は受けられる時に受けておけ」   と、先生は個室へ入って行った。 「……じゃ、お言葉に甘えてお先に失礼します」 『あぁ、おつかれさん』 ***  ***  *** 「ふぁぁ~~っ ――」   ほっとすると一気に疲れが押し寄せて来て、   さっきから大あくびの連発。   ERが、三次救急を取り扱うあの病院内で   一番忙しくしんどいセクションだって事は   研修を始めた時から覚悟していた。   でも、少し覚悟が足らなかったのかも知れない。   今日はゆっくり休んで英気を養い、   明日からは気を引き締めて頑張らなきゃ。   帰宅した倫太朗は玄関の三和土(たたき)に   何足かの見知らぬ革靴を見付け少しうんざりした   様子で眉をひそめた。   ”今日も我が家は千客万来、か……”   夏のお中元の時期や年末年始は父へご機嫌伺いに   来る大学病院の医学生・講師・准教授さん達の   人数が桁違いに多くて、流石に最近は何ともなく   なったが、中学の頃は”なんでうちのお父さんは   あつしや陽太のとこのおじさんと違うんだ??”   って、いっつも不満で一杯だった。   要は ”構われなさ過ぎで寂しかった”のだが、   そんな寂しさも何時の頃からか、自慰やセッ*スで   紛らわすようになっていった。   倫太朗はいつものように応接間の前を通って   奥の茶の間へ向かおうとして、開放されたままの   応接間の扉から見えた室内の様子の異様さに、   思わず足が止まった。   それに気付いた執事の八木が扉を閉めようと、   戸口へやって来た時、倫太朗はとっさにこう声を   かけていた。 「悪いけど、何か温かい飲み物部屋へ持ってきて  くれる?」 「はい、畏まりました。お紅茶で宜しゅう御座い  ますか?」 「うん、忙しいとこごめんね」   当家に仕えて30年の大ベテラン執事・八木は   香り高い紅茶と共に本場英国仕込みの   イングリッシュマフィンとひと口サンドイッチも   持ってきた。 「八木さんもお腹空いてない? 俺1人で食べても  味気ないから一緒に食べてよ」 「では、失礼してご相伴にあずかります」   ……その紅茶を何口か飲み、   サンドイッチも完食してから、本題を切り出した。 「何があったの?」 「てっきり倫坊ちゃまはご存知だとばかり思って  いましたが」 「??……」 「匡煌様が若奥様と離婚なさると旦那様に報告  なさったんです」 「んー……兄貴んとこ、あんまり上手くいってなかった  みたいだもんな」 「離婚の報告だけならまだしも、続けて匡煌様は  奥様との離婚が成立した暁には、姫川家の末の  お嬢様と一緒になりたいと、申されまして……」 「え ―― っ。姫川の末って、きーちゃ、いや、  清華さんの事?」 「はぁ、左様で御座います」   その時、倫太朗の脳裏に   『―― こう見えても私、まさてるさんと出逢って    かなり強くなったのよ 』と、   誇らしく言っていた清華の顔が浮かんでいた。   (年末、久しぶりに会って、燃え上がっちゃった    ってか??) 「で、父さんが怒りまくってあの有様ってワケ?」 「は、ぁ、英恵様は驚きのあまり卒倒して、  寝室でお休みになられています」   (そりゃあ卒倒もするわな……期待の跡取り息子が    大株主の愛娘に手ぇ出したんだから……)

ともだちにシェアしよう!