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第10話

  「―― だからよぉ、  お前は何べん言ったら分かんだよっっ!!」   がぁん!と、物凄い衝突音と共にデスク上の   ファイルやらディスクやらが飛び散った。 「す、すみませんっ。すぐやり直します」 「あー、そのセリフ1時間前にも聞いたわ。てめぇ、  このオレ様を舐めてんのか?!」 「そんな、滅相もない ……」   頭を下げ過ぎて、両脇から後方の先輩達が見える。 「いいか? 30分で直して来い。  次も同じようなら殺す」   冷ややかに言い放ち、   俺の下げている後頭部にバシン!   と情け容赦のない渇が入った。 「本当にすみません」 「謝ってるヒマがあんならさっさと仕事へ戻れ!」 「はいっ」   床に落ちた資料を拾い上げ、自分の机に戻った。   まだ、心臓がドクドクと鳴っている。   うぅ……こわい。   怒鳴られるのは最近やっと慣れてきたけど、   今日は特にいつもの数倍おっかなかった。   涙が滲みそうになるのを必死に堪え、   資料の修正点を確認していく。   あれだけブチ切れていたのに丁寧な書き込みが   されていて。   書かれている字の繊細さとは真逆の形相をチラッと   見やる。   に、睨んでるし……。   医局の戸口に仁王立ちだし。   俺はパッと目を逸らし、慌てて作業に戻った。   本当に、資料を改めて見返してみると鬼束先生の   指摘があまりにも正しくて、   こんな事も満足に出来ない自分が情けなくなる。   真剣に取り組んでいるのにも拘わらず抜けてしまう。   手抜きなんて考えていないのに、彼から見れば   俺の仕事など節穴だらけなのだろう。   初対面の時の第一印象では、鬼束さんって   絶対 ”や”の付く仕事の人だと思ってた。   それがよもやご同業だったなんて……。       でも、外科医としての技術力と診断力は   誰もが認める腕利きで。   早くも院内の誰からも仕事の鬼と比喩   されている。   近くなればなるほど、厳しさも分かる。   厳しさが分かるほど、その凄さも分かる。   口で言うだけの事をちゃんと実行している人だ。   指導医が新庄先生からこの鬼束先生に代わった事で   1日のうち関わる事も格段に多くなった。      自分の不甲斐なさに心底情けなくなり、   日々の仕事をこなすだけでいっぱい、   いっぱいなのは分かっている。   残業、残業の日々に身も心も(主に心が)   疲れ果て、こんな俺は終電が良き友達。   今は、いつの日か絶対あの鬼上司・鬼束を   乗り越えて、ひと泡吹かせてやるんだと、   そんな思いが支えで日々頑張っている。 ***  ***  *** 「―― お疲れぇ~~、桐沢センセもあんまし  根詰めないで適当に切り上げなよー」 「は~い、お疲れ様でしたぁ」   俺の他、最後に残っていた中村さん達が   帰ってしまうと、   医局内はし~んとして急に侘し気になる。   壁の時計を見れば、時刻はもうすぐ午後11半。   さっき帰った先輩達の言う通り、   そろそろ切り上げなきゃ終電も危ない。   あともう少しだけ、と、   しょぼついた目でパソコンのスクリーンを   睨みつけるように見る。   あぁ ――  コーヒー、飲みたいかも……   ふと、そう思ってた時、   何処からともなくコーヒーの香ばしい香りが   漂ってきて。   俺のすぐ横にヌッとコーヒーカップを持った   ごっつい手が突き出された。   !!もう……っ、足音忍ばして接近しないでよぉ、   あぁ、びっくりした。   振り向いたそこには鬼 -- イヤ、鬼束先生が。 「ったくぅ、相変わらず要領悪いな、おら、そこどけ」   俺をパソコンの前からどかして、   自分がそこに座り。 「コーヒーでも飲んで待ってろ ―― で、このメール  に返信すりゃいいんか?」 「はい、そうです」   鬼束先生は目にも止まらぬ鮮やかな   ブラインドタッチで、メールへ返信内容を   入力しながら俺へ話しかける。 「時間内に終わらねぇって分かってたら海外からの  メールなんぞ開くな。内容次第じゃ、  管理職じゃなきゃ対応出来んものもあるからな」 「はぁ……」 「ホントに分かってんのかねぇお前は……よし、  これで返信っと」   凄い! 僅か数分で4通も返信した。 「じゃ、オレらも上がるぞ」   さっさと先に立って出入り口へ向かう鬼束先生の   背中は、心なしか相当お疲れのように見えた。 「……お疲れのようですね」 「って、一体誰のせいだと思ってんだよ」 「すみません」 「表面だけのすみませんは聞き飽きた、あぁ ――   何だか今夜は浴びるほど飲みてぇな …… そうだ!  付き合え」 「お、俺が、ですか?」 「あんだよ、そのあからさまに嫌そうな顔は」   だって、嫌なんだもの、しょうがない。 「一応オレ達は恋人前提で交際中のお友達だろ?」      ”え ―― そうでしたっけ?”、   口を滑らせそうになり、慌てて口を噤んだ。 「あぁっ?? 何だって?」    ヤクザみたいな口調で凄まれ、フリーズする。 「いえ、何でもありません」 「なら付き合え。  超美味い関東煮食わせてやっからよー」  ***  ***  ***   ”美味い関東煮”って言ったら、   相良さんの屋台しかないやん……って、   思いながら鬼束先生に促されるまま   着いて行った所は、偶然にも、   俺が考えていた相良さんの屋台だった。   鬼束先生と俺が「ちわーっす」と、   店の暖簾を潜ると先客の中にも見知った顔が   あった。 「まさやぁー」 「おぉ、倫じゃん、久しぶりぃ」   久住柾也・26才。幼稚園の頃からの幼なじみ。   お母さんが園長を務める私立保育園で保育士を   している。 「あ、こちら、病院の先輩で鬼束先生」 「ども、鬼束です」 「久住です」   それぞれの簡単な自己紹介をしていると、   カウンター越しに現れた相良さんも   笑顔で俺達を迎えてくれた。 「いらっしゃい、倫ちゃん。おやまぁ、鬼束さんまで  ご一緒とはねぇ」 「ご無沙汰しています、相良さん」 「ささ、堅っ苦しい挨拶はなしだ。みんな、  とりあえずビールだね」      鬼束先生・柾也・俺に相良さんを加えた4人は、   久しぶりの再会を祝しビールで乾杯!   大の酒豪で知られる鬼束先生はあっという間に   ビールの大瓶を3本、   水を飲むみたいなスピードで空けてしまい。   相良さんに秘蔵してもらっていたらしい、   幻の大吟醸・越後の銘酒”剣舞い”を   柾也と2人で飲み始めた。 「あーっ! 2人だけでずるいー」   柾也が面倒臭げに言う。 「何なんだよー」 「俺も飲みたいっ!」 「お前はジュースかコーラにしとけ、  かなり酔ってるぞ」   と、鬼束先生。 「俺は全然酔っていません」   そう言ってる口調が既に酔っ払いそのものだ。 「ハイハイ、分かったから、  ジュースで酔い覚まそうな?」   日頃の仕事で駄々っ子の取り扱いには手馴れている   柾也が、俺にジュースを勧めてきた。 「だーかーらぁ、俺は酔ってないのっ!   もっとお酒飲むー」 「なぁ、久住くん、こいつはいつもこんな酒癖悪い  のか?」 「とんでもない、こんなの序の口ですよ。こいつが  マジに酔ったら ――」 「だからぁ、俺はぁ ――」 「分かったよ、酔ってねぇんだろ。煩いから  少し黙ってろ」   その時、柾也の携帯へ奥様からコールが入る。   柾也は新婚3ヶ月。 「へへへ -- 愛されてるねー、まーくん」 「気色わりぃーな、幼名で呼ぶな」 「早よう出てやらんと可愛いハニーが可哀想よ、  まーくん」   柾也は鬼束先生へも”ちょっと失礼します”と   断りを入れて、その電話に出た。 「もしもし、どうした? え?   まだ、相良さんの屋台だけど ―― え?   あぁ、倫と倫の病院の人が ―― って、  いきなり耳元で喚くなよ。あぁっ??   うそじゃねぇって……お前な……分かった、  分かったよ、今代わるから」     そう言って渋々俺へ受話器を差し出してきた。 「―― もしもしぃ、お電話代わりましたぁ、  私2丁目のクラブ・マリーンの --」   そこまで聞いて柾也は顔色を失くし、   慌てて俺から電話を奪って、 「もしもしっ、洵子? もしもしっ ----   切られてしもた……」 「あ~ら、ご愁傷様ぁ。早よう帰った方がええんと  ちゃう?」 「てめぇ、後で覚えてろー……じゃ、鬼束さん、  俺お先に失礼します」 「あぁ、お大事に」

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