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第32話

  柊二が佐久間会長のお孫さんとの縁談を   はっきり断ったと、噂が広まった数日後の事だ――      『―― おはよ~』『……はよー』   早番のスタッフが三々五々出勤してきて、   手早くユニフォームに着替えそれぞれの部署へ   散ってゆく。   週明けの月曜は何かと気忙しい。    「桐沢くん」 「あ、高見さん、さっきはどうもありがとう。  助かりました ――って、どうか、したんですか?」   医局に戻る途中で呼び止められた倫太朗は、   そのままレントゲン技師の高見に廊下の隅っこへ   引っ張られた。 「―― これ、キミが作成してたやつだよな?」   端の方でこっそり見せられたのは書類数枚だ。   雑巾を絞るようにしてねじってあったのだろう。   しわくちゃになっていた。         「あぁ! そう。コレです」   くしゃくしゃな書類に目を通した倫太朗は頷く。 「ところで ―― コレを何処で?」 「このフロアの喫煙室のゴミ箱に捨ててあった」 「そう、ですか……」   一昨日作成した書類をデスクの引き出しに入れて   帰宅したが、翌日の朝には紛失していたのだ。   保存したROMを持ち帰っていた為、再度作成し   准教授への提出には間に合ったのだが、     倫太朗は呆れたため息しか出ない。 「こういう事は前からあった?」 「いえ、最近かな」 「あれか? 例の噂……」 「え、えぇ、おそらく……」   麻紀とノンにバレて以来、柊二と倫太朗はかなり   気を付けていたのだが    ”人の口に戸は立てられぬ” の例え通り、   麻紀とノン以外に柊二と倫太朗のデート現場を   目撃した人物が2人の ―― 特に倫太朗に   関しての ―― あらぬ噂を吹聴しているのだ。    さらに声を潜める高見に、倫太朗は困ったよう   肩を竦めた。 「このこと他に知ってる奴は?」 「安倍さんがたぶん勘づいてると思います。  昨日もあったから……」 「昨日も?!」 「シッ。声が大きいです」 「キミも大変だな」   同情の言葉を吐いた高見が倫太朗の肩を叩いた。 「倫ちゃん?」    医局の戸口に、安倍が姿を見せる。 「打ち合わせしたいんだけど……」 「はい、今行きます ―― あ、高見さん。この事は  オフレコで願います」 「了解」   高見を残して倫太朗は安倍と医局内に戻る。 ***  ***  ***   倫太朗が執刀医として立つオペも増えてきて、   倫太朗の日常は今まで以上に多忙を極めた。   後輩達にも目を配り、   この秀英会病院からは安倍と倫太朗の2人が   参戦している共同プロジェクトについて話し合う。   残業は当たり前の日々。   帰宅時間も午前様になる事がしばしばだ。   煙草を吸わない倫太朗はコーヒーを   飲む量が増えた。   胃に良くないと知りながらも食事代わりに   流し込む事もあった。       「倫ちゃん。これコピーして会議室にお願い」 「はい」   安倍から手渡された数種類の書類を   コピーする。   充分な睡眠がとれないほどハードな毎日だったが   充実していた。   好きな仕事をやっているのだから充実していると   思えなければおかしい。   コピーした書類を抱えてオフィスと   同階にある会議室に向かう。   ドアには『使用中』のプレートが掲げられている。   室内にいるのは安倍だけだと分かっていながらも、   倫太朗は軽くノックをした。 「安倍さん。コピーしてきました」 「おぉ、サンキュ」   テーブルに書類を広げていた安倍が顔を上げる。 「んーっ」   両手を伸ばした安倍が軽く伸びをする。 「そういや昨日のアレ、誰の仕業か分かったのー?」   肩を回して解す安倍が言う『アレ』とは、   倫太朗のデスクの引き出しがまた悪戯された件だ。   綺麗に整頓されていた引き出しの中が   ぐしゃぐしゃに掻き回され、   全てのペンは折れ曲がり、電卓は壊されていた。      パソコンのハードディスクを悪戯されていなかった   事がせめてもの救いだった。      よくここまでやったものだと、相手の労力に   感心してしまったほどだ。 「いえ」   倫太朗は困った表情で頭を振る。 「悪質な嫌がらせだ。やっかみでやってんだろ」   社会人にもなって、と安倍は眉を顰めた。   安倍にもそして高見にも言わなかったが、   倫太朗に心当たりがないわけではなかった。   柊二と付き合い始めた直後、   保存したはずのデータが消されている事があった。   保存し忘れか? と思ったが、同じような事が   2度3度続くとさすがの倫太朗も疑惑を持つ。   誰かが故意にやっている。   そう思い始めた倫太朗はデータ全てを   ROMに保存して持ち帰るようにした。   そして偶然に聞いてしまったのだ。 『絶対あの子可怪しいわよ。たかが研修医よ。  よほど実力があるか、コネでもなきゃあんな風に  准教授や医局長から気に入られるハズないっ』 『もしかして、体張った成果かもよ?』 『うっそー。それって、枕営業?』 『実績が欲しけりゃ身体差し出せってか?』 『うわー、ちょっと勘弁してよ。鳥肌たっちゃったぁ』 『でも、確かにあり得るかもね。今回の担当に  したって、何であの子が? って感じだしー』       下卑た笑いが上がり、背筋が寒くなった。   何より、噂話しをしていたメンバーの中心の   声に聞き覚えがあった。    「何か飲み物を買ってきましょうか」   考えていると憂鬱になる。   気分を変えようと立ち上がった倫太朗が   そう言った時、   携帯の着信メロディが鳴った。 「もしもし ――…あぁ、吉村?」   恋人からの連絡にさり気なく背中を向けた   安倍を見て、倫太朗は邪魔にならないように   会議室を出た。   会議室を出たところで倫太朗も軽く欠伸をしながら   伸びをして深く息を吐く。   自分を快く思っていない者の所謂陰口、   幼稚な言動なのだが、自分でも分かっている事だけに   仕事で結果を出して見返すしかない。   小銭を確認した倫太朗はエレベーターで院食に   向かった。   終業時間をとっくに過ぎた時間帯だ。   院食内の照明も落ち、ひっそりとしていた。   その中で自販機の明かりが煌々としている。   小銭を入れて缶コーヒーを購入していると、 「まだいたのか?」   不意に背後から声を掛けられ、倫太朗は驚きの声を   上げた。 「しゅ、医局長……っ」   背後を振り返った倫太朗は恋人の顔を見て   ホッと胸を撫で下ろす。 「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだが」 「いいえ。誰もいないと思ってましたから……  あ、出張、お疲れ様でした」   柊二は医局長へ昇格し事務系のデスクワーク業務が   主となって、事務長と共に出張へ出る事が   多くなった。   今回はアメリカ・ラスベガスで開催されていた   医療機材の見本市とニューヨークのコロンビア大学   附属病院でもあるプレスビテリアンを見学して、   昨日の午後遅い便で帰国したばかりだ。       「出張中、オレのハニーはちゃーんといい子に  してたかな?」   と、だぁーれもいないのをいいことに、   柊二は倫太朗を背後からギューっと抱きしめた。       「ちょっ ――  しゅ、ダメですって、  誰か来たら ――」 「仕事、まだ残ってんの?」 「えぇ、明日は合同の打ち合わせがあるので」 「ほなオレもあとひと仕事片付けてくから、  そっちが終わったら  オレんとこに寄ってくれ」   「寄って……何、するんですか?」 「ふふふ……それは来てからのお楽しみぃ~」   ”じゃあな”と、倫太朗の項にキスを落として、   柊二は足早に去って行った。       ”この後は仕事にならないな、きっと”   そわそわして落ち着きのない自分を想像して、   倫太朗は苦笑した。

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