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第53話

「あぁ、そうだよ。俺はバカだよ。」 何気に呟いてとぼとぼと歩き出す。 腹は充分過ぎるほどに満ち足りたが、反比例するように心がささくれて渇望している。 どこにも打つけようのない悲しみと怒りと、どうしようもできない荒んだ感情を持て余していた。 そんな荒れ狂った心を落ち着かせるためにワザと大回りをして家路に着くと、エントランスに見慣れた影が立っていた。 まさか…希? 今日約束はしてないのにどうして… その影がゆらりと動いた。 「…随分と待たせるじゃないか。いいご身分だな。」 「…今日は先約があるとお断りしたはずです。今朝、俺と矢田の会話を聞いてたんじゃないんですか?」 「お前に選択権はないだろう?早く鍵開けろよ。」 高圧的な希を前に反論することもできず、黙ってオートロックを解除した。 エレベーターにするりと乗り込んできた希はやはり何か言いたげな雰囲気で… でも、俺はそれ以上何も言い出せずに目を逸らし、希の視線を感じながら上昇する階数表示をただ眺めていた。 玄関のドアを閉めた途端に希が口を開いた。 「アイツとヤってきたのか?」 え?『アイツ』って矢田のこと? 『ヤってきた』って… 不意に問われた言葉に驚いて振り向くと、希が冷ややかに笑っていた。 それを見た途端、俺は怒鳴り返した。 「そんなことある訳ないじゃないですかっ。 いい加減にして下さいよっ。」 怒りが頂点に達した。口から言葉が勝手に出てくる。 「大体、こんな所に来てる暇があるんですか? 俺との関係がバレてご令嬢との話が破談になったらどうするんですか? …こんなこと…俺は誰にも言いませんけどね。」 希の動きが止まった。 やっぱり…噂は本当だったんだ。 「…もう、十分でしょう? 来週朝イチで退職届を提出します。 これで、貴方との接点はなくなります。退職すればお会いすることもない。 ご結婚おめでとうございます。 どうぞ…お幸せに。 …二度と来ないで下さい。」 思ってたことを吐き捨てて、失礼します と一礼してリビングのドアを閉めた。 しばらくすると、ガチャリと玄関のドアを閉める音がした。 希が出て行ったようだ。

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