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朝陽 52
恵果さんがものすごく穏やかな微笑みを浮かべている理由を、この時僕は何も分かっていなかった。
足元のふらつく身体を支えて広い湯船に座らせ、その後ろに自分も滑り込む。肌当たりの柔らかいお湯に包まれて、束の間ここがどこなのかを忘れてしまいそうになる。
恵果さんの身体に腕を回して引き寄せると、微かな抵抗の後ふわりと背中を預けてくれた。
「あなたは…あの頃からずっと変わらず優しいですね」そう言った僕に恵果さんはさみしそうな顔で応える。
「自己満足ですよ、優しくされたいから、そうするのです」
誰に?なんて問う勇気はない。肩にもたれかかる首筋に唇を当てると、温まった肌に散る鬱血の痕と自分の歯型が目に入った。
せめて門まで送ります、という恵果さんを押しとどめ家に向かう。しんしんと雪の降る道を帰る中、僕は幸せすぎて再びすれ違った男には気が付いていなかった。
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