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「―――――…はい?」 一度伏せた瞼を持ち上げながら、声の主に目を向けると、また遠慮がちにあの、と聞こえた。首を傾げれば彼が無表情のまま風邪を引いているのかとたずねてくる。風邪、ではないけれど。どう答えるべきかと僕は小さく息を吐き、困ったように肩をすくめた。 「…あ、いえ。…いや、そんな感じ…ですかね」 「歩くのもお辛いなら、送りましょうか?」 「っ、そんな!大丈夫です。迎えなら、ちゃんと…」 来ますから、そう言いかけるも、ふと瞼が落ちかけ、傾ぐ僕の体を、優しく支える腕に僅かに息を飲んだ。 「無理をなさらないでください。あの、」 彼の声がふととまり、ああそうか、なんと呼べばいいのか考えているのだろうかと僕は思案しながら口を開いた。 「……あ、すみません。近衛、と言います。四ノ宮 近衛です」 「―――…智草、と呼んでください」 その名前を、僕はどこかで聞いた気がする。 迎えに来た車に乗り込み、窓から流れる空を眺める。見事に曇り空だ。どんよりとした重い空気に、灰色の雲。 自宅までの間、運転手は全く喋らないし、僕も話さない。だから、窓から流れる景色だけが、心安らぐ。 智草さんは僕が車に乗るまでそばにいてくれた。正直、居てくれて助かった部分が大きい。誰かがそばにいると眠れないたちの僕には一番効果的だった。しかも、不思議と体が軽く感じるし、あのふらつく感覚もない。 僕の住む四ノ宮家には、今はもう僕とお手伝いさんしか居ない。車の送り迎えは、優呉の兄である、桜庭湊が手配してくれている。薬代も、全てが桜庭家から出ている。 両親が亡くなり、僕も病気がちで、身動きが取れないままだった時、手を差し伸べてくれたのは記憶に新しい。 極一般の家だ。二階建ての、一軒家。 僕はただいまと玄関を開け、お手伝いさんの返事を聞いてから二階の自室に向かう。 「………」 自室は至ってシンプルだ。壁際に置かれた本棚。壁掛けの丸い時計に、ベッド。カレンダーや机もないそのシンプルな部屋を、僕は気に入っていた。 僕がいついなくなっても、簡単に片付けられる、そのシンプルさが。 「近衛さん、お食事はどうなさいますか?」 こんこんと部屋の扉をノックして、お手伝いさんが―――千代さんがそう扉越しにたずねてくる。千代さんは御年50歳のおば様で、僕の母親とは幼馴染だったらしい。今は僕の母親代わりの様な人。 「食べるよ。ありがとう、千代さん」 「……いえ、ではいつも通り18時でよろしいでしょうか」 「うん。それで」 扉越しの会話を終え、時計に目を向けると、もう4時半を過ぎたところだった。 「…あと、少し」 毎日充実しているかと聞かれれば、そんな事はない。もっとやりたいこともあったし、働いてみたかった。けれど恐らく、近いうちに僕はいなくなるのだろうと思う。日に日に重くなる体を処方された薬で誤魔化しながら生きるのは、たぶんもう限界で。 生に執着する人間もいれば、しない人間もいる。紛れもなく、僕は後者だろう。けれど、今日会ったあの人には―――智草さんには、また会いたいと思っていた。

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