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次の日の朝、外は雪が降っていた。
病院に行かなくてはと起き上がり、時計で時間を確認すると、朝の7時。昨夜、担当の医師から電話があり、朝一番で来てくれと言われているから、7時半には迎えが来るはず。そう思い、部屋の窓から外を見ると雪景色になっている。
白い、白い。僕は、この降り積もる雪の白さが、あまり好きではなかった。
「千代さん、おはようございます」
「おはようございます、近衛さん。本日は病院…でしたね。朝ご飯は軽く食べて行かれますか?」
「うん、そうしようかな。すぐに食べられる?」
「えぇ、用意してありますので。リビングへ」
僕より頭一つ分小さな千代さんは、着流しにエプロンを着て、廊下を音もなく歩いていく。リビングへ向かう千代さんの背中を追った。
リビングはフローリングで、少しだけ床が軋む。ご飯を食べるための机に、もう観ることの無くなったテレビ。滅多に座らない革張りのカウチソファ。
「千代さんの旦那様は元気ですか?」
「えぇ、……最近は」
椅子に腰掛け、千代さんが茶わんと味噌汁を持って来るのを待つ。以前、自分でやろうとしたら止められたのだ。それからは、お任せしている。軽く朝食を済ませて、焦げ茶色のトレンチコートに袖を通し、毛糸のマフラーを首に巻いた。
丁度玄関でワークブーツを履いている時に迎えが来たから車に乗り込み、病院に向かう。行きは車で、帰りはバスだ。あのバス停に、智草さんはいるだろうか。できればまた少しだけ話がしたい。
僕は後どれくらい、自分の願いを叶える事が出来るのだろう。
「……痛みはありませんか?」
「はい」
「咳は?」
「薬が効いているみたいです」
病院の独特な匂いは、好きじゃなかった。檻の中にいるようで、息苦しく感じてしまう。診察室の椅子に座り、医師の質問に答えていくだけ。これはもう、僕に治療や、触診は必要がないという事で。
「今日は顔色もいい」
「はい。身体が軽いです」
「それはよかった。いつもとおなじお薬を出しておきますね」
ありがとうございますと答え、問診だけの診察は終わった。
二十歳まで生きていられるか分からないとそう告げた時のあの顔を、僕はきっと忘れない。半年前の、あの表情を。
薬を受け取り病院を出ると、ちらちらと雪が降っていた。病院からバス停までは、図書館より近い。今日もいるだろうかと、僅かばかり緊張しながらバス停に向かった。ほどなくして見えてきたバス停には、一人座っている。けれど、その影が少し揺らめいて見えて目をこすった。
「あれ、智草、さん?」
僕が声をかけると、智草さんは読んでいた本を閉じて、ちらりと見上げて来る。
「……四ノ宮さん」
少しだけ息を詰まらせて僕の名字を呼ぶ智草さんに、僕はにこりと笑いながら、近衛で大丈夫です。と小さく伝えた。
「…あの、昨日はありがとうございました。隣、いいですか?」
「……どうぞ」
智草さんが少しだけ視線を逸らしてそう返事をしてくれた。僕は昨日と同じように椅子に座り、智草さんを見つめながら首を傾げた。いやに軽装だ。はたから見たらかなり寒そうだが、大丈夫なのだろうか。
「…智草さんは、これからお仕事か何かですか?」
首を傾げながら問うと、智草さんは「散歩です」と短く答える。あまり話しかけられたくないのだろうか。僕は膝でふと拳を握る。
「―――そう、なんですか」
「……近衛さんは…体調、いかがですか?」
ぽつりと智草さんがつぶやいた質問に、僕は肩をすくめながらまた智草さんの方を向く。どう答えていいのか迷いながら毛糸のマフラーを触り、ふっと口を開いた。
「大丈夫、です。…その…実は智草さんとここでお話ししてから体が少しだけ軽くなりました」
不思議ですね。そう付け足すと、智草さんが目を丸くして、僕はまた首を傾げた。僕は何か今驚くようなことを言ったのだろうか。
「智草さん?」
「―――…っ、いえ、明日もここにいらっしゃいますか?」
弾かれたように紡がれた言葉に、僕は小さく息を吐いて、まっすぐに智草さんを見返す。不安そうに揺れる瞳が、迷い子のように何かを訴えている。そんな気がした。
「……明日も、います、よ」
「なら、また明日、ここで、私と会っていただけませんか?」
智草さんの言葉に、僕は二、三回瞬きを繰り返してから、はい、と短く返事をした。
「よかった、です」
「?」
「智草さんが、そう言って下さって。実は僕も、またお話がしたいと思っていましたから」
明日もまた会えると思うと、嬉しさが勝って自然とはにかんだように笑った僕の体を、智草さんが引き寄せた。その拍子に、智草さんの膝に乗せていた本が滑り落ち、雪に濡れた地面におちる。
バシャンと音がして、拾わなくちゃと思うのに、あまりにも突然の事で、どうすればいいのか分からない。とりあえず、行き場のない手でやわやわと智草さんの二の腕に手を添えた。
驚くほどヒンヤリとした体に、思わず震える。
生きて、いる?
「…智草さん…?」
確かめるように呼んだ声に、
「っ、あ」
短くも、動揺した智草さんの声が耳に届く。
「智草さん、あの、本、が…」
落ちましたよ。と小さく告げながら、近衛が弱い力でと腕を押し離れる。智草さんは静かに落ちた本を拾い、すぐ脇に置くと、すみません、と呟いた。
「…急に、すみません」
「え、あ、いや、大丈夫です」
大丈夫ですよ、と乱れた毛糸のマフラーを巻き直しながら、同じ言葉を繰り返すと、智草さんは少しだけ僕から距離をとり、首を傾げた。
「……不思議ですね、以前にもどこかでお会いしたような、気がします」
僅かな既視感。
名前も、その声も、前から知っているような、そんな気がする。
「僕は小さい頃から病院にいたからそんなはずない――――」
のに、と続ける言葉は、智草さんに目を向けて消えた。はらはらと涙が流れている。呆然と僕を見つめながら、智草さんは泣いていた。音もなくただ流れる涙に、僕は目を丸くする事しかできない。
「えっ」
それでもなんとか涙を止めなくてはと、着ているコートのポケットからハンカチを取り出すと、智草さんに差し出した。
「使って、ください」
綺麗な深い深い青色の瞳から溢れる涙に、どう声をかければいいのか、分からない。ただ、泣き止んで欲しくて、智草さんの涙を、どうしてか僕は見たくなかった。
「…すみ、ません。本当に…」
「いえ、気にしないでください」
僕からハンカチを受け取った智草さんは戸惑いがちに涙を拭った。
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