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いけ好かない同僚の話⑤
形式的な別れの挨拶をしてタクシーを探していれば、少し離れた所で電話をしている獅子原を見つけた。その横顔は学校で見せるのとも、飲み会で見せたのとも違い、すごく嬉しそうに綻んでいる。
ああ、これが獅子原の本当の笑顔なのだと、酒に酔った意識の中で考えた。
「あぁ。今から帰る……いいよタクシーで帰るし。大丈夫だから部屋で待ってて」
その話しぶりから、どうやら相手は彼女で間違いないだろう。彼女以外には聞かせない声なのか、普段よりも格段に柔らかいその音が、俺を眠気に誘いやがる。
いけ好かない獅子原の紡ぐ言葉は、ひどく心地良かった。
「わかってるって。そんなに飲んでないし、誰にも触らせてもないから。はいはい、わかったわかった」
やはり、かなりの束縛魔でやきもち妬きのような彼女。俺が出せなかった獅子原の困り顔を、彼女なら電話1本で出させてしまう。
でも、そんな心配は無用なのだ。獅子原は彼女に言った通り、酒もほとんど飲まず、誰にも触れさせていない。酔いを装ってしだれかかっても、上手く逃げていたのだから。
だから、心配ないよと俺が代わりに言ってやろうか。そんな余計なお世話が喉の奥まできて、けれど止めた。俺にとって獅子原は友達でもなければ相談相手でもなく、ただの同僚だからだ。
それも、世界で1番いけ好かない同僚だからだ。
「あー…うん、いいよ。でも、帰ってからな」
1台のタクシーが獅子原の前で止まり、音もなく扉が開く。
静かとは言えない夜の街で、聞こえるはずのないものを俺は聞いてしまった。
胃の中の物が全て出てしまうぐらいゲロ甘で、身体中に鳥肌が立つような甘い言葉を。頼み込んで新調してもらったばかりの夏物のスーツが、氷でできているのではないかと思ってしまうほどの言葉を。
誰も知らない、誰にも見せない、世界で1人だけに向けた、世界で1番いけ好かない男の声を。
「じゃあまた後で……わかってるって。まっすぐ帰るから、部屋で大人しく待ってろよウサギちゃん。大丈夫、俺が愛してるのは慧だけだから」
獅子原の乗り込んだタクシーは、余韻をたっぷりと残して去って行った。夜の街に1人で立つ俺は、この何とも言えない感情をどこにもぶつける宛がなくて困る。
「おいおい………マジか。今時あんなことをサラッと言えるやつ居るのかよ……」
そういえば。
俺が嫁に「愛してる」なんて言ったのは遠い昔で、それも冗談交じりかベッドの上だった気がする。面と向かって言った記憶はない。
そんな言葉を臆せず言えるのは、余程の自信があるのか、それとも言わずにいられないのか……きっと、獅子原の場合は後者なのだろう。
彼女のことを話す獅子原は楽しそうで、けれど時々ふっと影を落とす。何か心配事があるのかと問えば、彼は少し躊躇してから「終わりが怖い」と呟いた。
それは油断して出た本音なのだろう。本当に酒に弱いらしい彼が、つい漏らしてしまった不安の種なのだと思う。
終わりなんて考えて付き合っていられるかと、昔の俺なら笑い飛ばしたかもしれない。終わったら次に行けばいいと、無責任に言っていたかもしれない。
けれど、俺は獅子原にそんなことは言えなかった。何も、言えなかった。
ただただ、終わりなんて来なければいい……と、嫌いなはずなのに願った。
彼女のことを病的に愛し、いつまでも焦がれている同僚の幸せを少しだけ応援したくなった。
言葉にしないと、きっと獅子原は壊れてしまうのだろうと知ってしまったからだ。
「……俺も真似してみるかな」
家へと向かうタクシーの中で、さっきの彼らの会話を思い返す。俺はあの同僚のように平然とは言えないし、噛むかもしれない。土壇場で真っ赤になって、誤魔化してしまうかもしれない。
急に言われた嫁だって、酔っ払いの戯言だと相手にしてくれないだろう。
「いいなぁ………溺愛」
いけ好かなかった同僚は、実は一途で彼女思いのいいやつだった。好きになれないことに変わりはないけれど、悪いやつではないと知った。
――それにしても。
生意気で束縛魔で、なかなかに面倒臭そうなケイちゃん。
あの獅子原をあそこまで骨抜きにするケイちゃん。
それは一体どんな子なのだろうか。
「きっと絶世の美女なんだろうなぁ……ケイちゃん」
獅子原とケイちゃんのように、俺と嫁もラブラブでいたいなんて思った話。
そして翌日に獅子原から、あの後予想外の渋滞に巻き込まれた結果、23時の門限に遅刻し、フローリングの床で1時間も正座させられたことを聞いた俺は腹を抱えて笑った……ことは、いつか獅子原とケイちゃんの結婚式で披露してやろうと思う。
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