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寝不足にはご用心②

「あ、あの……リカちゃん、まだ?」  おずおずと口を開いたウサギが、潜めた声で訊ねてきた。  先にこちらを見ていたのは自分の方なのに、さも今気づいたかのような素振り。照れ屋なウサギらしい反応に耐えきれず笑みが零れる。  ああ、昨日もこうして初めは強気だった。けれどいつの間にか甘える雰囲気を出してきて、気づけばぴたりと身体を寄せてきた覚えがある。    昨日のウサギと微妙にリンクする態度に、零れた笑みは濃くなる。  それを訝しんだウサギが、眉を寄せて俺を見る。その表情の意味することは「本当は気づいているくせに、意地悪しやがって」だろうか。  言葉にするのが恥ずかしくて、言い出せないのだろうか。  思えば学校の、しかも教室でそんなことを考えるはずはないのだけれど。しかしながら俺は寝不足で、程よく腹も満たされていて、夢見心地だったのかもしれない。  だから、現実と記憶がごちゃ混ぜになっていた……の、かもしれない。 「なあリカちゃん、もういいだろ?」 「もう?まだ駄目」  何に対してかはわからないけれど、とりあえず「駄目」と言えば、ウサギは微かに口を尖らせる。小さく何かをぼやいたのが聞こえたが、その反抗的な反応すら愛おしい。  顔を背け、視線だけで俺を見るウサギ。窺い見る仕草が、情事の時に許しを請うのと重なり、自分でも口元が緩んだのがわかった。  ちら、ちらと教科書と俺を見比べたウサギが、意を決したかのように口を開く。 「先生、もうこれ以上は……無理、だから」  まさかのシチュエーションプレイに、周りの音が消えた。 「やっばぁ……慧君が可愛すぎて、堪らない」  口からは何の飾り気もない、心に浮かんだ言葉が自然と出る。他に言葉を知らないのか、と言われたとしても、この一言に尽きるのだから仕方ない。  俺の言葉に、元々大きな慧の目が溢れるほど開き、一瞬にして顔が真っ赤になる。  握った慧の拳がわなわなと震え、その異変に目を瞬くと、今まで見えていなかったものが視界に飛び込んできた。  きょとん、と首を傾げる生徒たち。均等に並んだ机も、見慣れた教室の風景も、全てが現実だ。いつの間にか、重ねてしまった過去の記憶を漂い、授業中という現実を忘れてしまっていた。  まずいと思った時には既に遅く、あちらこちらで「慧って何?」「え、兎丸君の名前呼んだ?」と生徒が騒ぎ始める。  いくらウサギが可愛くても。  いくら寝不足だったとしても。  絶対に踏んではいけないヘマを踏み、どうしよう……と、打開策を考えるより前に羞恥心で口元を押さえる。あり得ないミスに人知れず動揺する俺と、未だ震えるウサギを他所に、周囲の反応は激しさを増し、そして──。 「なっ、か、可愛くなんてねぇ!!!」  先に言葉を発したのはウサギだった。眦を吊り上げ、睨みながら「男に可愛いって言うなんて、バカにしてるのか」と鋭く詰め寄ってくる。  しかし、その様子は照れ隠しをしているだけにしか見えず、睨んだ顔も誘っているとしか思えない。 『恋は盲目』とは怖いものだ。 その後はこちらを見つめるウサギの視線に気付かないフリをして、なんとか授業を終えたのだった。  自分の失敗に少なからずショックを受け、重たい足取りで家に帰った俺を待ち構えていたのは、目を輝かせ辺り一面にハートを撒き散らかした年下の恋人で。  ──腰の鈍痛が翌日にまで持ち越したのは、言うまでもない。      *寝不足にはご用心*END

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