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第12話 湊との関係-3

――……いつの間にか意識を飛ばしていた。 それは快感に耐えられず気を失ったのか、果てしない疲労ゆえの眠りだったのか。目を覚ました時には、寝室の中は朝の光に満ちていた。耳元で自分を呼ぶ声に気付いて、薄く両目を開ける。顔だけ反対側へ倒すと、柔らかく微笑んでいる湊と目が合った。 「おはよ、サキちゃん」 「………」 何で湊さんがいるんだろう。 ぼんやりした頭でその顔をじっと見つめていると、湊は亮平の頬をきゅっといたずらにつねった。 「こーら。先輩が挨拶してんだから返事しなさい」 「……!すみません、お、はようございます!」 その反応に湊がくすくすと笑う。そして優しく抱きしめられて、「はー……しあわせ」と耳元でささやかれたら、落ちない人などいないだろう。亮平ももちろんその中の一人。もう抵抗しようとも思わなかった。目の前にある大きな波に身を任せてしまおうと、朝のまどろみの中で決めてしまったのだ。亮平は初めて、湊の胸に顔を埋め自らも腕を回して目の前の身体を柔く抱きしめた。結果的に、それが契約の合図になってしまった。 「シャワーしといで。出て正面のドア。タオルとか適当に使っていいから」 「はい…、ありがとうございます」 亮平の髪を優しく撫でる手を名残惜しく思いつつ、亮平はその言葉に甘えて先に身体を流した。何度やったのか自分でも覚えていないけれど、下半身に纏わりつく乾いた精液が昨夜のことが現実であったのだと厭らしく訴えている。行為中のことを思い出しそうになって、亮平は慌てて冷水の方にハンドルを捻った。 「つめたっ!」 熱冷ましにはちょうどいい冷水を浴びて、亮平はひとりバスルームで平常心を取り戻そうと乱暴に身体を洗った。 シャワーから出ると、突き当たりの部屋から自分を呼ぶ声が聞こえた。 声がする方へ向かうと、そこは30畳ほどのリビングが広がっていて、キッチンに立つ湊がコーヒーを淹れてくれていた。昨日は玄関から寝室へ直行したため、リビングに入るのは初めてだ。 交代で湊が身体を流しに行ってしまったため、亮平はその広い室内で自分の存在を持て余していた。いけないと思いながらも部屋の中を見渡してしまう。 何インチかも分からないような大きな薄い壁掛けのテレビと、ガラスのダイニングテーブルと揃いのローテーブルが何とも高そうで、革張りのL字型ソファもまさに湊らしい雰囲気を醸し出していた。 そう言えば脱衣所にあったタオルも、すべて同じブランドの真っ白なタオルだったなと思い至る。多分、このコーヒーも拘りのものなのだろう。ツンと苦いブラックコーヒーを無理やり流し込みながら、ミルクと砂糖が欲しいなんてとても言えないなと思った。 「…っくしゅん!」 シャワーから出て自分用のコーヒーを淹れる湊の手元を、亮平がソファからじっと見つめていたとき、足先からふいに寒気が来て、思わずくしゃみが出た。 「大丈夫?ちゃんとあったまった?」 丁寧にドリップしていたコーヒーから目線だけこちらに寄越して湊が気遣う。 鼻をすすりながら、亮平は素直に答えた。 「冷水でシャワーしたんで……」 「はあ?!何で!」 「なんか…、シャキっとしたくて…?」 「……サキちゃんってホント……」 湊ははぁ~~っと長い溜め息をついて、白のシンプルなマグカップをローテーブルに置きソファに小さく座っていた亮平をぎゅうっと抱きしめた。 「……?」 言いかけたあとに続く言葉が読めなくて、腕の中で首を傾げてみる。湊に対して遠慮が取れるわけがない亮平の、精一杯の自我だった。 「ホントほっとけない。かわいい、好き」 「……!」 その一瞬で心臓を抉られた。 昨晩から“かわいい”は何度も言われていたけど、“好き”と言われたのはこの時が初めてだったから。湊から香るシャンプーの香りを気付かれないように肺の奥まで吸い込んで、亮平はその胸に体重を預けそっと目を閉じた。 ◇ 「悟さんらしくないっスよそんなの!」 「うるっせえな俺らしいって何だよお前に何が分かんの」 「でも!」 「俺のやり方が気に入らないなら出てけよ!」 鋭い目で睨みつけられ、まるで蛇と蛙のようだ。動けなくなって、反論できなくなる。おかしいのはそっちだと分かっているのに、頷かされる圧倒的なオーラ。 「………行くとこないの知ってるでしょ…」 「ちっ、……変なモン拾うんじゃなかった」 吐き捨てるようにそう言われる。 「……っ、な……」 「…………」 「はいカットカット!!亮平君どーしたの!」 監督が笑いながらカットをかける。亮平の目は、真っ赤になって涙で滲んでいた。 このシーンの場合、ここから二人の言い合いになってサキが出て行ってしまう、までが台本の流れだ。怒ってイラついた演技をしなければいけないのに、泣いてしまってはNGだ。 「すんません情緒不安定でした!」 慌てて目をこすってそう謝る亮平を見て、スタッフ達が一斉に笑う。 「頼むよ亮平君~。とりあえず10分休憩!」 「ホンットにすみません!!」 NGを出しても和やかなスタッフの一方で、湊は無表情で台本を読み直していた。 「亮平大丈夫?」 「へーき」 スタッフから濡らしたタオルをもらって、目元を冷やす。亜子が心配して声をかけたが、一言答えただけで亮平は背中を向けてしまった。 何を傷ついているんだ。 でも、刺さってしまった。「変なモン」という台詞が、サキではなく自分自身のことを言われているように思えて、背筋が凍った。きっと、それほど迫真の演技を湊がしていたということ。 「サキちゃん」 「!はいっ!」 「ちょっと」 「はい……、」 亮平を呼ぶ湊の声は低く冷たかった。 亜子にタオルを渡して、湊の後ろをついていく亮平の背中がなんだかとても小さく自信がなく見えて、亜子はわずかな違和感を持った。それでも、湊が話を聞いてくれるなら大丈夫だろうと疑うことなくその背を見送った。 小道具が置かれている倉庫の横の自動販売機。その影で湊と亮平が相対しているのを、スタッフは気遣って近付いても来なかった。誰もが「陵平が説教されている」と思っていたから。 「あの…、す、すみませんでした……」 絶対に怒られる。 そう思って先に謝罪の言葉を口にした。1センチしかない身長差により、ふと顔を向ければ目が合ってしまう。それが嫌で、亮平は自分の足元を見ていた。 「ねえ」 「…はい」 「かわいすぎるんですけど」 「はい…はい?!」 「も~ホント無理。なに?俺のセリフ聞いて悲しくなっちゃったの?」 思わず顔を上げると、湊はにっと悪戯に笑っていた。 「あの…怒らないんですか」 「ん?うん。今の空気は対スタッフ用」 「でも、あんな……」 「あのシーンはたまたま怒る演技だったからNGだったけどさ、泣くとこだったら多分めっちゃ褒められるよ。自分が知ってる感情の方が演じやすいのは当たり前だし、感受性豊かなのは役者にとったらいいことだと思う。…ってコレはただの持論だけど」 「はぁ……」 「今日うち来る?」 「はっ?!!」 「あははっ、冗談だよ。コーヒー飲む?」 「……いただきます」 自動販売機にもたれていた背を起こして、湊がカフェラテのボタンを押す。ガコンと落ちてきた缶を取り出し、「ん」と亮平に差し出した。自分用にブラックコーヒーのボタンを押して、片手でプルタブを開ける姿がやけに大人に見える。差し出されたカフェラテは、亮平が一番好きな銘柄の缶コーヒーだった。偶然でもその偶然が嬉しくて、亮平も真似して片手で蓋を開けてみる。 「この前うちに来たときさ、サキちゃん無理してブラック飲んでたでしょ」 「え、」 「そーゆーの遠慮しないで言ってほしいんだけどなぁ」 ね?と微笑む湊に、亮平は考えることもなく頷いていた。 ◇ 「巡ですか?」 「そ。まぁ勉強の一環ってことで」 「はあ、まぁ、いいんじゃないですか」 久し振りに事務所に顔を出した亮平に遠藤が声をかけ、今出ているドラマの端役に巡の起用をねじ込んだと説明がされた。 「そんな興味なさそうにするなって」 「いや興味ないんで」 「ンなこと言ってると食われぞ」 事務所に来る前に撮影したファッション誌のポラを眺めていた亮平が、ぱっと遠藤の目を見る。二人の間に、一瞬の緊張が走った。 「……俺があいつに食われると思ってんの?」 「さあ、お前次第だな」 「…亜子さんは?今日打ち合わせしに来たんだけど」 「はいはい、交代するよ」 遠藤がソファから立ち上がり、デスクで書類と格闘している亜子の肩を叩く。 一言二言交わして、入れ替わりで亜子が亮平の前に座った。 「コーヒー飲む?」 「うん」 社内に置かれたデロンギのコーヒーメーカーは、美味しいコーヒーを淹れられるため社員の評判がとても良い。亮平も事務所に来たときは必ずこのコーヒーを飲んでいるが、今はなんだか無性にあの缶コーヒーが飲みたい気分だった。湊を思い出したいと、思ってしまった。 打ち合わせを終えて事務所を出ると、デニムの後ろポケットに入れたスマホが長いバイブを鳴らす。電話だとすぐに気付いて画面を見た瞬間、心臓がきゅっと縮まるのが分かった。 『堺湊』 緑と赤の丸のどちらをタップすればいいか迷ってしまって、出るまで数秒かかってしまった。 「も、もしもし!」 『もしもーし、お疲れ様~。仕事中?』 「いえ、今日はもう終わりました」 『あ、ホント?俺も早めに終わったからさ~、メシでもどう?』 「はい!ぜひ!」 『じゃあ~店の地図送るから現地集合で』 「分かりました、すぐ行きます!」 初めて身体を繋げた日からちょうど一週間。 その日、亮平は意志を持って湊の元へ飛び込んでいった。

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