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第14話 恋しちゃったんだ!(亜子目線)

「亜子ちゃんもう21時半だけど経費申請の書類いっこも出てないよね?!もう待てないよ?!あと1時間で回さなかったらあたし帰るからね!!」 「す、すみません……」 沙也香さんが鬼の形相で私に詰め寄る。締め日はもともと残業確定の日だ。少しくらい大目に見てくれたっていいじゃないか。そう思ったけど、今書類を渡したらそこから経理課の処理を始めるわけだから、そりゃ怒りたくもなるか。と冷静になった。 「大体この前17日に全部回すって言ってたよね?!絶対ムリだと思ったけど!とにかく早くしてね!!」 「はい……」 これ以上遅くなって沙也香さんに嫌われるのはごめんだと、彼女へ回す書類を大急ぎで作る。なんとか1時間弱で全て書き終えて持っていくと、その分厚さを見てわざとらしくため息を吐かれた。時刻は22時41分。しかもまだ水曜日だ。当然の反応ながら、また心が重くなる。そしてまだまだ私も帰れない。引き継ぎデータをまとめなくては。 結局、亮平の貧血事件は当然部長にも社長にも報告して、亮平の母親にも謝罪に行った。文句を言われるどころか、いつも放ったらかしですみませんと逆に頭を下げられてしまって、なんとも複雑な気持ちになった。当然安福さんにはまたこっぴどく叱られて、受け持ちを一気に二人も減らされた。その中の一人はナツメちゃん。彼女は太一の担当になった。せっかく売れっ子を持たせてもらえたのに、自分では何も出来なかった。引き継ぎデータを作っていても遠藤さんから言われたことをそのまま記すのみで、虚しさしか残らない。どんどん落ち込んでいくのが分かる。少しでも気分転換しようと、お手洗いへ立った。 廊下に出てひとつ目の小会議室を右に曲がってすぐ。右手にトイレが、左手には給湯室がある。コーヒーメーカーは事務所内に置いてあるものの、その他のお茶やお湯、小さめの冷蔵庫はこの給湯室にあるため、社員みんなよく利用する。 そう、よく使うのだ。だから、誰がいたって不思議ではない。本来は。 「………、」 給湯室から微かに声が聞こえて、何の気なしにそちらへ目線をやる。 目に入った光景が衝撃的過ぎて思わず固まってしまった。遠藤さんと黒川さんが、異常に近い距離で話していたから。なに、抱き合ってんの?(かろうじてそれは違った) 見つめていた私の視線に気付いた遠藤さんに、「おう」と自然に挨拶される。 この人は何があっても動じないのだな。それほどどうでもいいと思われいるのだろう。ムカつく。遠藤さんの声に反応して、黒川さんもこちらを振り向く。 亮平のことを話した時以来なんとなく顔を合わせづらくて、目を合わせたのは久しぶりだ。二人に軽く会釈して、トイレのドアを押し開けた。 (……なになになに!完っ全にあやしい雰囲気だったんですけど!!) 普通の社員同士の距離感ではなかった。 二人ともパーソナルスペースが狭いのだろうか?私と話している時はそんなこと思ったことないけど。その時ふと、前にネットで「距離が近い二人は肉体関係がある」という文章を見たことを思い出した。思わず想像してしまって、背中が震える。いや、考えすぎだ。でも二人とも設立当初からここで働いているのだから、付き合っていたりする可能性もなくはない。 トイレの個室で悶々とそんなことを考えていたら人感センサーが消えて真っ暗になってしまい、思わず「わぁっ」と声が出た。 (でもそう考えると確かにお似合いかも……) 二人とも長身でスタイルいいし、黒川さんは年齢不詳なくらい綺麗だし、遠藤さんだってそれなりの顔立ちだ。性格にかなりの難有りだけど、黒川さん相手なら憎たらしいことも言わないのかもしれない。 手を洗いながらそんなことを考えて、ふと顔を上げてどうしようもなく虚しくなった。鏡の中に映る自分は、可愛くもなければカッコ良くもない。肌はボロボロだし、髪だっていつも引っ詰めて手入れなんてまるでしていない。今日は内勤日だから服だって適当だ。仕事もできなくて、受け持ちも減らされて、自慢できるところもないし、自信があるところもない。 そんなことを思って辞めたくなったって、明日はやってくる。 今日を終わらせて、明日は亮平の撮影の付き添いと、ナツメちゃんの現場に行って編集さんに挨拶をして、他の子の営業もかけなきゃいけないし、社用車のガソリンももう少なくなっていた気がする。来週末には二日間ロケが入るからその出張申請も出さなくてはいけないし、洗濯物も溜まっていたし掃除もしたいのに。 じわじわと涙が溜まっていく。 ブスが泣いたって目も当てられない。 そう思って、鏡の中の自分を睨みつけた。 ◇ 「え~!亜子ちゃん替わっちゃうの?!私女のマネージャーさん嬉しかったのに~!」 「ごめんねこんな短期間にコロコロと……」 「それは全然いいけどさ~!」 表参道のオープンカフェ。ナツメちゃんがずっと行きたいと言っていたダッチベイビーが有名なカフェだ。平日だけど席はそれなりに埋まっていて、チラチラとこちらを見る女の子達の視線が痛い。ナツメちゃんはそんなこと気にしない性格で、大口を開けてそれを頬張っていた。 「ていうか、遠藤さんはそれOKなの?」 「は?遠藤さん?」 いきなり出てきた名前にびっくりしてオウム返しになってしまった。 「だって私に言ってたよ。亜子ちゃんと上目指して、事務所で一番になれよって」 「え……」 「正直に言うけどさ、私そんとき言ったの。“亜子ちゃんとうまくやっていく自信はあるけど、一番になる自信はないよ”って。だって遠藤さんの方が仕事取ってくるのうまそうじゃん?今までのツテもあるだろうし」 またしても反論のしようもない。くるくると意味なくカフェオレにささったストローを回しながら話の続きを待つ。 「そしたらね、“あいつは根性だけはあるから、あと何年かやれば一番敏腕になってると思う”って。あ、違うかな、敏腕になってないと困る…とかだったかな?とにかくそんなようなこと言ってたよ」 いちごとダッチベイビーのかけらをフォークで刺して、ナツメちゃんは嬉しそうに最後の一口を食べていた。私はストローを回していた手が止まって、固まった。 彼女の引き継ぎをするとき、遠藤さんはたしかに「ナツメはこれから稼ぎ頭になるぞ」と言っていた。あの時感じた違和感の正体はこれだったんだ。誰だって売れっ子の担当につきたいのは当たり前だし、これからそうなると思っているんなら尚更自分が担当して育てていきたと思うはず。それなのに、遠藤さんは私にナツメちゃんを渡した。 “私が”、そう出来るはずだと思って? 「亜子ちゃん?」 ナツメちゃんの問いかけは耳に入っていなかった。頭の中で、ダブルブッキングの件で怒られていたときの会話が頭の中で再生される。 “お前の見込み違いだったんじゃないのか” “いや、引継ぎ不足でしたすみません” そうだ、あの時も何の話だろうと思ったんだ。遠藤さんは、私を見込んでナツメちゃんの担当にしたんだ。自分がラクをしたいとか、新しい子を持つのが大変だからとかそういうことじゃなくて、私に育って欲しかったから……。 「え、亜子ちゃん大丈夫?」 「………」 ……ずるい。だったら最初っからそう言えばいいじゃないか。 「根性しかないんだから仕事できなくてどうするんだ」っていつものように小馬鹿にした態度で言えばいいのに。第三者からこういうことを聞くと、本心であると分かるぶん本人に言われるより何倍も嬉しいなんてどうせあの人は知らないのだろう。 こんなことでナツメちゃんの前で泣くもんか。手の甲に爪で思いっきり跡をつけて、なんとか耐えた。泣きそうなことも、泣くまいと堪えていることもバレバレだ。 大丈夫?と声をかけたっきり、ナツメちゃんは静かにクランベリーティーを飲んでいた。 「ナツメの引き継ぎ、終わった?」 「えっ。あ、はい、一応……」 数日後の夜、事務所で遠藤さんに声をかけられた。どういう顔をしていいか分からなくて、いつもよりさらに無愛想な返事になってしまう。 「一応ってお前な……」 呆れ顔になった遠藤さんに心臓がきゅうっと縮んだ。 「ごめんなさい、期待外れなヤツで……」 「自覚あんならまだマシだわ」 相変わらず無愛想で横柄な態度。私の中でこの人のデフォルトはこれだ。 他の顔がまったく想像できなくて、考えると頭が痛くなる。 自分の想像力の乏しさのせいで。 「遠藤さん、私、この仕事向いてると思いますか?」 コーヒーを入れて席へ戻って行く背中に、質問を投げた。 げんなりした顔でこちらを振り返ったかと思うと、「あほか」と一言言ったきり席に戻ってしまった。いつもいつも、明確な答えはくれないんだな。まあ私のことなんてどうでもいいって話か。きっと黒川さんが何かを相談したら、親身になって聞いてあげるんだろうな。 勝手にそんなことを考えると、何だか胸に空気がつかえたみたいにモヤモヤして落ち着かなかった。 夜遅い時間の方が、仕事が捗る。 電話もFAXも来ないから、自分のペースで仕事を捌くことが出来るのだ。 ようやくメールの返信のメドがついて、部長に提出する予算表の作成に取り掛かる。でもその傍らで、この前一度きれいにしたのに経費申請の書類がまた机の左側に溜まっていた。 「これ交通費?」 「あっ、はいそうです」 「またこんな溜めおって……」 同じく残業していた遠藤さんがその書類の束をばさっと取ってまた席に戻る。 いつの間にか二人きりになっていて、落ち着かなさがまた再発した。 「ありがとうございます……」 思ったより小声になってしまって、その感謝の言葉が届いたかどうかあやしいところだ。そんなことは気にもせず、遠藤さんはテキパキと伝票に目を通して申請書類を作成していた。 彼の席は私の斜めうしろ。背中でタイピング音を聴いていたら、どうしても、聞きたくなった。そう思うと止められないのが私の悪いところだ。 「あの!」 ぐるりと振り返って彼の背中を見る。ちょうどボトルガムに手を伸ばしていたところで、なに?という表情でこちらに顔を向けた。 「私に足りないものって何ですか?私これでも一生懸命やってるつもりです。でも出来ないことばっかりで、どうしたらいいか分からないんです……」 遠藤さんがガムを一粒口へ放り込むと、糖衣が砕かれる音が社内に響いた。普段なら聞こえもしないそんな微かな音が今日はやけに耳に入ってくる。 「仕事をするっていうのは、先輩とか上司の言うことをどこまで素直に聞けて、どこまで自分で考えて、自分の行動の取捨選択が出来るかだと思ってるよ、俺はな。どの業界でもどんな仕事でもそうだろ。聞く耳と、考える頭と、伝える口とさ」 「……。ん~…もうちょっと具体的に……」 「はぁ…。あのさ、俺が太一にでも聞いて仕事の優先順位の付け方考え直せって言ったの覚えてる?」 「あ……」 「お前それやったか?」 「………」 「あえてしなかったんなら自分で考えて仕事を回す方法を考えなきゃいけないし、忘れてたんだったらお前に聞く耳がない証拠だな」 「………すみません」 我ながらヤブヘビだ。 仕事のやり方の話をしたらこうなるに決まってる。 「まぁでも、がむしゃらにやれるってのも強みではあるから」 「え?」 声の雰囲気が少し変わった気がして、俯いていた顔をあげる。 「亮平のためにアホみたいに雑誌とか広告のコピー取ってただろ、Talassa切られたあとに」 「あ…。あれは、ちょっとでも亮平の可能性を広げられたらと思って……」 「そういうのは悪くないんじゃないの。……はい、終わり!」 軽快にENTERキーを押して、コピー機に出力された書類を沙也香さんの机に置いた。 喋りながら書き物をできるのが単純に羨ましい。事実、私はさっきから手が止まったままだ。 「あのっ、牛丼付き合ってくれませんか?私がおごりますから!」 「そういや腹減ったな。行くか」 「はいっ!」 部長に提出する予算表は明日に持ち越しだ。今はこちらの方が何倍も大切な気がする。そう思って、急いでノートパソコンの電源を落とした。 「あの、聞きたいことあるんですけど」 「まだ何かあんの。大盛りつゆだく」 「私も!」 「はーいお待ちくださーい」 いつもの牛丼屋。やる気があるのないのか分からないバイト店員が注文を取って、厨房へ下がっていく。 「んで何?」 「あの、遠藤さんって黒川さんと付き合ってるんですか?」 単刀直入に聞くと、水を飲んでいた遠藤さんが大げさに咳き込んだ。いつも飄々とした態度しか見ていないから、なんだか可笑しくて思わず笑ってしまう。 「大丈夫ですか」 「はー…変なとこ入った。いきなり不躾過ぎだろ」 「だってこの前何かいい感じの雰囲気だったから」 「いい感じって。中学生かお前は」 「で、どうなんですか?やっぱそうなんですか?」 二杯目の水をコップにそそいでそれをまた飲み干している遠藤さんを思わず急かしてしまう。 「もう4~5年前の話だよ」 「しっ、えっ、え?!」 「付き合ってたのも1年くらいだしな」 「えーーっ!!マジだった!て言うかなんで別れちゃったんですか?!黒川さん美人なのにーっ!」 「楽しそうだなお前……」 運ばれてきた牛丼大盛りをかきこみながら、ちょっと居づらそうにする遠藤さんの表情やリアクションが面白くて質問攻めにする。この人も誰かを好きになったりするのだという当たり前のことがなんだかすごく似合わなくて、笑えてくる。 「今はそういう人いないんですか?」 「いねえよ。そう言うお前はどうなんだよ」 「は~?恋人がいたらこんなとこで遠藤さんと牛丼大盛り食べてませんよ」 「はは、確かにな」 この時の私は、もう遠藤さんのことを嫌いだとかイヤな奴だとか、そんな思いは少しもなかった。会話のテンポが心地よくて、牛丼は相変わらず味が濃くて、でもこの前よりお肉が柔らかい気がして、遠藤さんが珍しくビールを飲んでいるのが何となく嬉しくて、ただただ楽しかった。 「私がおごるって言ったのに……」 「牛丼じゃなくてもっといいもんおごれっつーの」 結局お会計はいつものように遠藤さんが二人分払ってくれた。店から出て、いつかのようにまた二人並んで歩く。今日もきっと駅まで送ってくれるつもりなのだろう。「大丈夫ですよ、ここでタクシー拾ってください」という一言を、なぜか思いつきもしなかった。 「明日は?」 「亮平の撮影です」 「ドラマ調子いいな」 「はい!続編めっちゃ嬉しいです!」 一緒になってビールを飲んだものだから、何となくテンションが上がっているのが自分で分かる。長い間沈んでいた川底からいつの間にか抜け出したような、ずっと足に絡まっていた蔦がほどけたような、そんな爽快感。 その時、背後からけたたましいクラクションが鳴らされてものすごいスピードでバイクが駆け抜けた。 「わぁっ!」 「えっ?!おいっ!」 車道側には遠藤さんが歩いているから私は全く危なくないのだけど、そのクラクションとエンジン音にびっくりしてつんのめってしまった。 転びかけた身体を咄嗟に伸びてきた腕が支える。 「なんで壁側でコケるんだよ」 「すいませ…」 慌ててパッと顔を上げたとき、ものすごい至近距離で目が合った。 牛丼屋の横並びより近付いたことがなくて、慣れないその距離感に心臓が爆発したかと思うほど。 「………手」 「え、」 「手、痛いんだけど」 「…へっ?!わっ!すっ、すみません!」 知らぬ間にぎゅうっと掴んでいたようで、遠藤さんの麻素材のシャツには深い皺が出来ていた。 「…………」 「……お前もタクシー乗ってくか?」 「へっ?!」 「や、何か体調悪そうだから」 「あ、はい、あの…はい……」 「つかまえるからちょい待ち」 「はい……」 やばい。 これはやばい。 二十ウン年間生きてきて、この感覚は何度か経験したことがある。 これはものすごくヤバイ。相手がまずい。有り得ない。どうしよう。でもどうしようもないことは分かっている。あーーーーーーもう! ダメだ。 好きになってしまった。 あんなに嫌いだったのに。 自分の変わり身に呆れるほどだ。 「腹でも痛いの?」 「はい?!」 「ずっと黙ってるから」 「痛くないですっ!私だって黙るときくらいありますよ!」 「ふーん」 遠藤さんが黒の革バックから黒いマルボロの箱を出したのを見て、「禁煙ですよ」と腕を軽く叩いた。 「は~…喫煙者は生きづらいわ」 笑いながらそう言って、彼は煙草をしまう代わりに粒ガムを取り出していた。 腕を叩いたのはわざとだ。 理由をつけて触れてみただけ。 そして再確認する。触れた手がドキドキ熱くなって、やっぱり…と心の中でうなだれる。 窓の外の流れる夜景に目をやるふりをして、私は窓ガラスに薄く映った遠藤さんを見ていた。

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