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第17話 救い

『ご飯、食べます?昨日買い物行って材料あるんで何か作りますよ。ウチ来れますか?』 「……あー、うん。行く……」 巡の家に行くのはこれで四度目だ。最初にごちそうになってから、さらに二回家に上がって一緒に夕飯を食べた。二度目は巡特製のキーマカレー。三度目はトマトシーフードパスタだった。もう迷わず巡の家にたどり着ける。インターホンがなって何の気なしにモニターを見た巡は、傘も差さずにびしょ濡れになった亮平が呆然と立っているのを見て驚きの声を上げた。 「ちょ…っと、亮平さん傘は?!」 玄関から飛び出し亮平の手を引いて家の中に押し込む。 「昨日降ってなかったから……」 「今日降水確率90%って天気予報で言ってましたよ。あの人傘も貸してくれないんですか」 どこから来てここへたどり着いたのか、嘘をつく間もなくバレているのがとても恥ずかしい。重たい玄関の扉がバタンと大きな音で閉まったことで、湊のことを考えないようにと頭の中で繰り返していたのがぷつりと途切れた。途切れた瞬間、苦笑いしてしまうほどの勢いで涙が込み上げてきて、亮平は思わず巡の肩に身体を預け声を殺して泣いた。 「……亮平さん?」 問いかけに答えが返ってくることはなく、ただ小さく震えて時々鼻をすする音が響くだけ。巡は小さくため息をつき、自分より少し背が高い亮平の細い身体をぎゅっと抱きしめた。 「だから言ったのに……」 「……っ」 背中に巡の体温を感じた亮平も、うなだれていただけの身体を起こして巡の体に腕を巻きつける。「ごめん……」と何に対しての謝罪か亮平自身も分からないようなことを口にして、それを聞いた途端、巡は湊に対して腹の底からグラグラした怒りが沸くのが分かった。 いくら大物俳優だろうが、人の心をもて遊んでいいはずがない。誠実に付き合うのなら諦めもつくだろうが、それとは真逆の結果だ。最初に「湊さんには気をつけた方がいい」と言ったとき、もっと強く言っておくべきだったと、唇を噛みしめて後悔した。 「……亮平さん、風邪引きますよ。風呂沸かすんで入ってください。着替えとかテキトーに貸しますから」 しばらく黙ったまま抱き合っていると、雨で濡れた亮平の身体がどんどん冷えていくのにはっと気が付いて、巡が亮平の顔を覗き込む。ふるふると首を振る亮平を置いて、とりあえず洗面所からバスタオルを取って来て亮平の頭にふわりと被せた。何となく優しい柔軟剤の香りに安心して、亮平はがしがしと顔を拭き鼻を思いっきりすすって、「……あー…。だっせ。ごめん、ありがと」と普段の調子で言った。 亮平が風呂であたたまっている間、巡は夕食の準備に取り掛かる。次は中華にしようと決めていた。醤油やオイスターソースでしっかりめに味付けをしたニラ玉と、豆板醤でピリ辛に仕上げた春雨サラダ。そして炊きたての白いご飯と、粉末の鶏がらスープの素を使った簡単な中華スープをダイニングテーブルに並べていく。 風呂から上がった亮平が大きな目をさらに大きくさせて、「相変わらずすげーな」と笑うのが巡にとっては何よりも嬉しかった。 「味ちょっと濃い目にしてみたんですけどどうですか?」 「超うまい。巡、店出せるんじゃね?」 「褒めすぎですよ」 ガツガツと豪快に食べ進め、二杯目の茶碗もあっという間に空にする亮平を普段通りの優しい顔で見つめながら、巡は心の中で虎視眈々とその様子を伺うもう一人の自分がいるのを感じていた。 「雨ん中帰るのめんどくさいな~」 食事を終えて巡がコーヒーを淹れていると、リビングのカーテンを少し開けて外の様子を見ていた亮平がぽつりとつぶやいた。雨足は先ほどよりも強くなっていて、確かに外に出るのは誰もが億劫に感じる天気だ。そして何の気なしに言ったであろう亮平のその言葉を、巡は思わず掴まえていた。 「うち泊まってきます?」 「え?あっ、ごめんごめん。そういう意味じゃない」 後輩に気を遣わせたと思い慌てて否定する。 カーテンを閉める背中を見て、巡はほんの少しだけ口角を下げた。 ―……あの人のところには泊まるのに。 そんな幼稚な嫉妬心が芽生えたのは、何年ぶりのことだろうか。 マグカップのひとつに牛乳と砂糖を加えて、リビングのローテーブルにそれらをコトンと置く。ソファを背もたれにしてカーペットに腰を下ろした巡が、確信犯的に亮平に問いかけた。 「ひとりで平気なんですか」 一瞬、目と目が合った。 お見通しだと言わんばかりの巡の群青の瞳が、亮平を突き刺す。 「………別に、子どもじゃないんだから。平気ですよ」 わざと敬語を使ってふざけたように返事をしても、意味はない。無理をしてもしていなくても、わざとでもそうでなくても。すべて巡にはバレてしまう。どうしてなのか、そんなこと今の亮平に考える余裕はない。 「亮平さんって分かりやすいですよね」 「……それって役者としてどうなの…」 「あはは、いいんじゃないです?今は別に演技中じゃないんだし」 それとも、 続けた声が冷たく小さくなって、亮平はコーヒーに落としていた目線をぱっと巡へ移した。 「それとも、今も演技中ですか?」 ◇ 「かーー~~わいい~~~!あははは!!コレがこれ?!?!やっば~~!!」 「ちょっとも~本ッッ当やめません?!?!」 結局その日、亮平は巡の自宅に泊まることにした。一人になりたくないと思っていたのをずばり当てられ、気を遣えば演技をしているのかと疑われ、殻を作っているのが何となくバカらしくなった。2つも年下の後輩に甘えるのもいかがなものかと思わないでもないけれど、今日だけは巡の言葉に寄り添ってしまおうと決めた。 コーヒーを飲み終えてからもぐだぐだとテレビを見ていた二人だったが、亮平があっと思い出したように声を上げ、「俺あれ観たい!子役んときの……あ、“リリーとワルツを”ってやつ!」と巡にお願いしたのだった。 画面の中の巡は、中性的な丸い顔立ちをしていて本当に可愛らしかった。群青の瞳は今と変わらないけれど、幼いその目は照明が当たらずともキラキラ輝いているように見える。 「はぁ~~…。お前にもこんな純粋そうな時代があったんだなぁ……」 「それどういう意味ですか~今だって純粋ですよ!」 「自分で言ってりゃ世話ねーわな」 笑いながらそう言って、視線をまた画面へ戻す。 巡も、しばらくして亮平がからかいを言わなくなると何とか画面に目を向けられた。自分の過去の作品を見返すのはなかなかに気恥ずかしいものだけど、ふと隣を見ると亮平が潤んだ目をしていたのを見て、いつの間にか巡自身もそのストーリーに入り込んでいた。 “お母さん行かないで!!いやぁだあぁぁ!!!!” 母の背を追いかけて悲痛に泣き叫ぶ子ども。 亮平はそのシーンで思わずほろりと涙した。 本当に悲しそうに泣くその姿は、なるほど天才子役と言われるのも頷けるほどの演技だった。こんな小さな子どもが、このドラマのストーリーを理解して、バラバラで撮影されるそのシーンの前後を想像して、気持ちを作って、そして涙を流している。大人の自分がその難しさに四苦八苦しているというのに、この差は一体何なのだろう。 亮平はそのドラマを最終話まで観終わったあと、じっと巡を見つめた。 「何ですか?どうせ今は可愛くないですよ」 巡はわざとスネたようにそう言ったが、真顔の亮平の視線は固まったまま。少し不安に思って、「亮平さん?」と目を合わせた。 「なんか……お前ってすごい奴なんだな」 「ええ~?何ですかそれ。バカにしてます?」 「するわけねーだろ。トイレ借りる」 溜め息まじりにそう言い捨ててリビングを出て行った亮平の背中を見て、巡は思案に暮れた。その心の中に清らかな感情はあまりない。今すぐにでも説き伏せてやりたいと思うけれど、そんなことをして信頼を失くしてしまっては元も子もない。ここは慎重に行かなくては。 あんな人のことなんて忘れてください。 俺にしとけばいいじゃないですか。 ぐるぐる回るその台詞を、間違っても言ってしまわないように心に固く鍵をかける。 長期戦でもなんでもいい。 あの人がこちらを向いてくれるなら、そんなのどうってことない。 玄関で涙を流す亮平を見たときから、心は決まってしまっていた。 ……いや本当は、もっと前から。 亮平が過去のトラウマを話してくれたときから、どうにもこうにも「ほうっておけない」と思うようになった。そして何より、傷ついた彼を見てほんの少しだけ嬉しくなった。自分の付け入る隙ができたと喜んでしまった。そんな自分に呆れながらも、その想いは変わらない。 「なにぼーっとしてんの」 ソファの背もたれに首を預けていたところを、トイレから帰ってきた亮平に上から覗き込まれ、巡は思わずビクっとしてしまった。 「ふは、びっくりした?」 年上で先輩であることは百も承知だけど、してやったりと笑うその無邪気な顔がかわいくて、巡の心臓はぎゅうっと痛くなる。 「……明日は」 「ん?14時からレッスンだろ?」 「そうでした」 マグカップを片付けようとソファを立ち上がった巡の背中に、亮平はぽつりとつぶやいた。 「巡ありがとな」 「……え?」 聞き間違いかと思ってパッと振り返った巡に、亮平は照れたように笑って今度はちゃんと目を見て言う。 「ありがとって言ったの、色々と」 ………その顔は、ずるい。 手に持ったカップをまたテーブルに戻して、巡は思わず亮平を抱きしめていた。 さっき鍵をかけたからなんとか確信的な言葉は言わずにすんだけれど、もうその手に込められた力をどう言い訳するのか、巡は考えることができなかった。

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