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第18話 新しい仕事

. 寒くて、冷たくて、びしょ濡れで辿り着いたあたたかい部屋。 すぐに落ちてしまいそうになる俺を掴まえてくれる巡の腕は、身体は、………とても熱かった。 「……め、」 「………」 茶化してはいけないような空気を察してしまって、名前を呼ぶことができなかった。 ただ、抱きしめられたその体温と巡の心臓の音が直に伝わって来て、それがなんとも心地よくて、なぜだか少し安心した。……でもなんで抱きしめられているんだろう。そんなに悲壮感漂ってたかな。つーか変な角度だから腹筋疲れて来たんですけど……。そう思っていたとき、巡はようやく「すみません」と言って腕を解いた。咄嗟にソファのふちに手を置いたら、ずるっと滑ってしまって思わず背中からソファに沈む。それを見ていた巡も慌てて手を伸ばしたけど間に合わなくて、その一瞬で俺は巡に見下ろされていた。 「………っ」 思い出す。 あの殺風景な寝室で、天井のライトの逆光になった湊さんの顔を。 暗い影を落としながら、言われたのだ。 “今までありがと” 頭の奥でこだまする。 聞きたくない。怖い。 相手が違うだろ。 巡じゃない。 でも、この体勢は、こわい。 「………何ですかその顔…」 そんなこと聞かれたって、今自分がどんな顔をしているのか分からない。 咄嗟に顔を作ろうと思ったけど、なぜか巡の目を見るとそれが出来なかった。俳優が聞いて呆れる。何も言えずにいる俺を見て、巡は小さく溜め息をついて離れていった。視界が明るくなったことにほっとして、俺も起き上がる。 「すみませんでした」 「いや、全然。大丈夫……」 「亮平さん、あの人に抱かれてたんですか」 「…!」 真っすぐ聞かれて、逃げ場がなかった。背中にじっとりとした湿気を感じながら、言い訳らしい言い訳はひとつも出てこなくて、それが肯定の意味になることを巡の顔が一段と険しくなったのを見て気がついた。 「それって、亮平さんの意志だったんですか?」 「は?な、……」 容赦ない質問の連続に心を抉られるようだった。誰が自分からケツを差し出すかよ。ふざけんな、俺だって男だ。わざわざ好きこのんで抱かれに行ったわけじゃない。 “……ねえ、それ、本当?” 妄想の中の湊さんに、笑われた気がした。 「……そりゃ、最初は…。俺だって、抵抗したけど…。でも別に乱暴にされたわけじゃない。結局俺が許したんだ。断って撮影が気まずくなるのイヤだったし…、それに……」 「……それに?」 「んー…。なんか、許されてる気がして……。俺の、存在って言うか。例えば俺が事務所の契約更新が出来てるのは俺が仕事してるからで、俺が実家に帰れるのも…給料持ってくからで……。でも湊さんといるときは、別になにも…身体ひとつあれば許されるのが…嬉しくて……」 「そんな…仕事はまぁ…そうでしょうけど、家族の存在に理由なんていらないじゃないですか」 「いるんだよ、うちは」 じわじわと溜まっていく涙のせいで、巡の顔がぼやけてよく見えない。見えない方が好都合だ。こんな話、最低で、最悪すぎる。 「あなたって人は……」 そう言ったっきり、巡は黙ってマグカップを洗いに行ってしまった。 その後、通された来客用の部屋のベッドにごろんと寝転がる。 ずぶ濡れで家に来て、玄関で泣いて、つまらない話をして……クソダサいにも程がある。後輩の前で何やってんだ。そう思うと途端に恥ずかしくなって、唸りながら枕に顔を埋めた。 男に抱かれていたなんて聞いて、引いただろうか。そりゃ引くよな…せっかく仲良くなれたと思ったのに。最後口をつぐんでしまったのだって、きっと呆れてモノも言えなかったんだろう。 静かに響く雨の音を聴きながら、湊さんと巡の二人をいっぺんに失くしてしまった気になってまた少しだけ泣いた。 「おはようございます。眠れました?」 翌朝、こちらの気まずさがまるで嘘のように巡は普段通りの態度だった。気を遣わせているんだろうなと勝手な解釈をして、悪いと思いながらも俺はその態度に便乗した。 「うん、ありがと」 「たまご、割って焼くのと混ぜて焼くのと茹でるのとどれがいいです?」 「……一番ラクなやつでいいよ」 そう言うと、巡はいつもの笑顔で“じゃあ目玉焼きで”と言ってキッチンへと向かった。 窓から差し込む眩しい朝の光を眺めながら、はあ…とひとつ溜め息を吐く。毎日の生活の主軸になっていたドラマの撮影が終わり、湊さんとも終わり……。 俺の心は、ぽっかりと穴が開いてしまったようだった。 * 「おはようございまーす……」 「あっやば、亮平。あ、えーと、会議室!」 「亜子さんコーヒーくらい入れさせてよ」 「え、あっ……」 打ち合わせと書類書きのために事務所に出社すると、入口のところでなぜか亜子さんに通せんぼされた。腕を押しのけてコーヒーメーカーまで辿り着く途中、黄色のふわふわの後ろ頭が目に入る。俺の姿を見て、「おはよう」といちいち挨拶をして来るそいつのこと、心底どうでもいいと思うけど、心底嫌いだ。返事をせず睨みつけてやると、そいつはすぐに目を逸らした。だったら声掛けてくんじゃねえよといつも思う。自分の心を映したような黒い波に、ミルクと粉砂糖を溶かす。プラカップを持って会議室に行こうと思ったとき、その黄色頭が座っているソファ前のローテーブルに目がいった。散らかったポラと、表紙のゲラ。赤いTの字を見て、Talassaだとすぐに分かった。そこに刷られた写真を見て、愕然とした。 「なにこれ……」 「亮平、行こう。会議室の予約押してんのよ」 「触んなよ!!」 そう言って俺の腕を引っ張っていた亜子さんの手を思い切り払いのける。カップをテーブルに置いて、ゲラを取り上げた。映っているのは、紛れもない、俺をこの雑誌から引きずりおろした張本人。……依伊汰だ。 「初登場から最短で表紙起用ですって」 依伊汰のマネージャーである遠藤さんが、にこにこと表面的な笑顔で俺の手からその紙を引き抜いた。そのわざとらしい言葉遣いが神経を逆撫でして行く。 「ちなみに再来月もカバー決まってるから。あと巻頭も。しかも単独で。あざーす」 「ちょっと遠藤さんやめなよ」 「なーんで。仕事の成果は報告し合わなくちゃ、同期なんだし。ほら、亮平のドラマだって評判よかったじゃん。依伊汰も観てたよな?」 「う、うん…」 二人の会話を聞きながら、腹の奥がグラグラと煮えくりかえる感覚がした。 ムカつく。 人の仕事横取りしやがって。 大して本気でもねえくせに。 昔から知っているぶん、依伊汰に対して遠慮するという感覚が俺には全くない。だからいつも、こいつに対してだけは感情任せな言葉を口にしてしまうのだ。 「はっ。コネはいいよな努力しなくてもすぐカバーやれんだから。つーかお前をカバーにする時点で雑誌の底が知れてるって感じだけど。そのうち廃刊じゃね?編集も大したことねえな」 吐き捨てるようにそう言ってやる。 まるで思っていないことも、こいつを攻撃するときはすらすらと口から出せるのが、本当に性悪だなと思う。そしていつもなら目を逸らしたまま無視を決め込む依伊汰が、その時は珍しく反論してきた。 「……なんでそんなこと言うの…」 「あ?」 「俺のこと嫌いなのはいいよ俺の悪口ならいくら言ってもらってもいいよでも編集さんとかスタッフの人を悪く言うのは許せない自分だって一緒に仕事してたじゃんなんでそんな事言えるの?!」 ……こいつが立ち上がると、俺が見上げなくてはいけないのが本当に嫌だ。 「そうやってイイ子ぶんのがムカつくっつってんだよ清廉潔白なふりしやがって……!」 「はいはいそこまで~」 俺が一歩距離を詰めたのを見て、遠藤さんがようやく止めに入った。 この人の太くて伸びのいい声は、聞くとなんだか気が抜ける。引き下がるタイミングが掴めてよかったと思いながら、きっともうぬるくなってしまったであろうコーヒーを取って足早に会議室へ向かった。 「えらいご機嫌斜めだね」 「……別に。あいつがムカついただけ」 「傷つかない人間なんていないんだからね?」 「亜子ちゃんうるさいよ」 傷つかない人間なんていない……なんて。 じゃあ、俺だって、そうだろ。 * 久しぶりの丸一日オフの日。朝から寝続けてもう16時だ。外は小雨が降ってるし今はあまり騒ぐ気分でもなくて、一人家でぼうっとしていた。 巡を誘ってメシでも行こうかと思ったけど、メッセージ画面を開けたまま時間が過ぎてしまった。 誘ったら迷惑だろうか。 イヤだったら適当に断ってくれればいいけど、あいつは変な所で律儀だからな…。 そう考えたら誘えなくなった。 画面を戻って、湊さんとやり取りしていたページを見る。待ち合わせの場所や時間を決める最低限の会話しかそこには残されていないけれど、どれも全部懐かしくて、切なくて、心と頭がキンと痛くなった。でもその痛みさえ心地いい。 湊さんに会いたい。 そう思って、サイドテーブルに置いたままにしていた香水を手に取った。湊さんが俺に似合うと言ってくれた、爽やかで、でもほんの少し重い香り。天井に向かってひと吹きして、小さな香りの粒を感じながらそっと目を閉じた。 翌日、朝一で呼びだされた事務所の会議室。 ドアを開けたら巡が座っていて、一瞬ビクッと驚いてしまった。 「おはようございます」 「おー、おはよ」 「亮平さんも呼ばれてたんですね」 「まあ」 隣に座って、朝メシ代わりのバナナヨーグルト味のゼリー飲料を飲む。ふと隣を見ると、若干呆れたような目で巡がそのパウチを見ていた。 「最近連絡なかったですけど、ちゃんとご飯食べてますか?」 「ん?ん~……」 昨日、水と野菜ジュースしか口にしていないなんて言ったらまた怒るだろうな。返事を濁しながら、鼻から抜けるわざとらしい香料に眉をひそめた。これはハズレだ。 「また倒れたらどうするんですか。ちゃんと自己管理してくださいよ…子どもじゃないんだから」 若干呆れたようにそう言われて、いつもなら気にならないのにその日はなぜか気に障ってしまった。ただ心配してくれているだけだと分かっているのに。最近本当に気が短くて、そんな自分が本当にいやになる。 「お前なんなの?そんなふうに言われる筋合いないんだけど。それとも何、俺のことバカにしてんの?」 「……ええ、そのへんに関しては」 「あ?」 「プロを名乗るなら体調管理も仕事のうちですよ」 はっきりそう言われて、より一層苛立ちが募る。100%正論でしかない言葉に言い返すことなど出来るわけなくて、俺はその間違った腹立たしさを持て余してまずいゼリーを飲み干した。 その時、バタバタと足音が聞こえたと思ったら会議室にうちのマネージャーが飛び込んできた。相変わらずこの人はいつも騒々しい。 「遅れてごめっ…JR遅延してて……っ!」 机に手をついてぜえぜえと肩で息をする亜子さんに、まだ開けていなかったペットボトルの水を手渡す。 「おはよ、飲んだら」 「あー!亮平ありがと!いただく!」 「おはようございます」 「巡君おはよう!ちょっと待ってね、遠藤さんももう来ると思うから」 亜子さんの表情と声の高さで、良い話なんだろうなと予想がついてほっとした。ふと向かいに座ってノートパソコンを開けるマネージャーの爪を見る。 「亜子さん彼氏でも出来た?」 「はっ?!なに急に!出来てないよ!」 「いや珍しくネイルなんてしてるからさ」 「亮平って意外と人のこと見てるよね……」 「で!どんな人?」 「だから別に…!」 その時おもむろにドアが開いて、「はよ~」と低い声が響いた。驚いた亜子さんが肘を机にぶつけて悶えていて、ほんと騒々しい。そんな彼女を平然と無視して、遠藤さんは座るやいなや俺たち二人に声を掛けた。 「お前ら二人に朗報だ」 「え」「え?」 ホチキスで止められた数枚の書類を渡されて、巡と一緒に覗き込む。 制作会社やらテレビ局やらスポンサーやらの企業名と、『ゴールデン☆ハイスクール(仮題)』とクソダサいタイトルが書かれた一枚目をめくると、登場人物の紹介とおおまかなあらすじがつらつらと書かれていた。そこまで読んでようやく、これがドラマの企画書だと分かった。湊さんくらい大物になれば別だろうけど、若手の俺たちがこの段階の書類を見る事は多分ほとんどないと思う。 「何これ、どゆこと?」 「仲良くしてた脚本家が学園ドラマやるって言うんでめっちゃ売り込んだんだよ。絶対損させないからって言って。で、無事決まりました」 「……え」 「それって……」 「そう」 二人してもう一度その書類を見る。 “不良生徒と成績優秀な生徒会長(※ただし極道の息子)がひょんなことから仲良くなり、一緒に学園の事件や謎を解決していく物語” ……えーと。だから、それってつまり……。 「「……W主演?!?!?!」」 遠藤さんがにやりとした表情で大きく頷くのを見て、巡と顔を合わせる。さっきまでの険悪な雰囲気はどこへやら。二人で手を取り合って、はちゃめちゃなテンションで喜び合った。 その日の夜。 別々の仕事をしていたにも関わらず、興奮冷めやらない俺たちは再び落ち合って一緒に夕飯を食べに出た。「外だとあんま大きな声で話せないですよね。まだ発表前だし」と巡に言われて、じゃあウチ来ればと一人暮らしのアパートへ誘った。 「ご飯にレモンソーダって合うんですか?」 デパ地下で買い込んだうまそうな惣菜を適当に広げて乾杯する。烏龍茶を飲む巡が、俺が飲んでいるレモンソーダのペットボトルを手に取ってまじまじと見つめていた。 「え?あー…そういうの考えてないかも。確かに合うか合わないかで言ったら、合わないな」 「あははっ、やっぱ合わないんですね」 素直に思ったことを言うと、ツボに入ったのか珍しく巡が大きく笑った。その姿を見てほっとする。例え俺のことを気持ち悪いと思っていたとしても、それをおくびにも出さないで接してくれる巡に、心から感謝した。 それからはずっと仕事や演技の話を熱く語り合った。ジュースでこれなんだから、酒が飲めるようになったら二人ともとても面倒くさくなりそうだ。そう言うと、巡はまた笑っていた。その造形が美しいと思ったのはその時が初めてだった。もちろん整った顔をしているとは以前から思っていたけれど、なんとなく、自分とは違う光やオーラを放っているように感じて、肺の奥がざわりとした。この違和感は一体何だろう。嫉妬か、恐怖か、それとも、憧れか。いつだったか、遠藤さんに「食われるなよ」と言われたことを思い出して、今度は背中が一瞬で冷えた気がした。 「泊まってったらいいのに。俺床で寝るし」 「何言ってるんですか。先輩にそんなことさせられませんよ」 終電も終わってしまった深夜1時半過ぎ。 巡はタクシーで帰ると言って、引きとめる俺を軽くいなして帰り支度をしていた。そりゃあ、あの豪邸と比べてしまったら狭い1DKのしかもシングルベットなんて、あまり居心地いいものではないだろうけど。 「亮平さん、頑張りましょうね」 「……おう」 「俺も頑張りますんで。あっちも、こっちも」 「は?あっち?どっち?」 「今はまだ内緒です」 「何だよそれ」 珍しく意味の分からないことを言う巡に思わず笑ってしまった。 パタンと玄関の扉が閉まって、一気に音がなくなる。高校生の頃から一人暮らしをしているこの部屋のこの空気。もうとっくに慣れたはずのそれが、なぜだか無性に寂しく感じた夜だった。 「なんっか……これ似合ってんの?やばくない?失敗じゃない?」 鏡に映る自分の姿に違和感があり過ぎて、不安になってマネージャーの亜子さんと通称“姐さん”と呼ばれるヘアメイクのYUKIさんに感想を求めた。亜子さんはお世辞が分かりやすいし、姐さんは正直に直球で言ってくれる人だ。 「ううん!すごい良いよ、ホントに不良みたい!姐さんどう?!」 「うん!最高に頭悪そうで最高にキレやすそうで超カワイイ!」 「……姐さんそれ褒めてなくない?」 「えっ何で!?役に合ってるって最高の褒め言葉じゃないの!」 ドラマの衣装合わせの日。 その何時間も前にやってきたのは、姐さんとそのお弟子さんが経営しているという小さなサロン。 一般の客はほとんど取らず、業界関係者の予約だけでやっているらしい。そんなので経営が成り立つのかと思ったら、数ヶ月先まで埋まっていると聞いて驚いた。さすが姐さんだ。 パシャパシャと断りもなく写真を撮りまくる亜子さんを気にすることもなく、自分で自分の写真を撮って眺めてみる。ブリーチを2回した後のダブルカラー。感想は、「腰が痛い」これに尽きる。 「ほんっとに腰いてえ~~」 「3時間以上だもんね、お疲れ様。はいお昼。着くまでに食べちゃって」 「ん、ありがと」 社用車の後部座席で、ぐぐっと伸びをする。渡されたほか弁を開けると、高菜ご飯に白身魚のフライがのっていた。まだほのかに温かいそれを大口で頬張る。 それまで気にされることもなかった俺の昼飯は、貧血でぶっ倒れてしまった一件のせいで亜子さんがわざわざ用意してくれるようになった。特に反抗する理由もないので、大人しく渡されるものを食べている。フライをかじっていると、ポケットの中の携帯がブブッとバイブを鳴らした。行儀悪く箸を咥えたままそれを取り出して、画面を開く。 「ん。巡着いたって」 「ロビーんとこで待ち合わせって言っといて。あと5分で着きまーす」 「りょー」 その後、劇中で使う制服を決めるために巡と二人でネクタイやズボンを取っ替え引っ替えしながら何枚も写真を撮り、私服を決めるためにまた何度も着替えて撮影した。 その数日後、亜子さんから紺地に白のパイピングが施された金ボタンのジャケットと、グレー地に水色のチェックが入ったズボンが制服衣装に決まったと報告を受けた。衣装が決まって台本が渡されると、いよいよ動き出すのだなと身震いしてくる。 澤田夏樹 ・・・ 有村陵平 樫本春 ・・・ 神生巡 台本の頭の方にある、出演者の名前が載ったページ。 一番上に自分の名前があることがこんなに嬉しいとは思わなかった。 巡と2人とは言え、初めての主演だ。絶対失敗しない。そう気合いを入れる毎日だった。 * 「っは~~~疲れた……」 深夜2時。その日の撮影が終わってようやく部屋に辿り着き、ジャケットを脱ぐ余裕もなくベッドに倒れ込んだ。数日前からいよいよ始まったドラマ撮影。思った以上に役が難しくて、あまり順調とは言えない状況だった。 自分が足を引っ張っているのが嫌でも分かる。湊さんだったら、なんて言ってアドバイスしてくれるだろう。またあのライブハウスで演技指導してくれる日が来たりするだろうか。例えば今電話をかけたら、あの人は出てくれるだろうか。例えヤりたいという理由だけでもいい。どんな理由でもいいから、俺を選んでくれることがまたあるのだろうか……。 そんなことをふわふわと考えながら重くなった瞼を閉じかける。そのとき、ズボンの後ろポケットに入れた携帯が震えて、思わず飛び起きた。 まさか。 ……まさかなんてあり得ないのに、そんなことを思う自分が情けない。 画面に表示された名前に一瞬がっかりして、通話ボタンをスライドした。 「…もしもし」 『湊さんかと思いました?』 「………お前ほんと怖いわ…」 『あはは、亮平さんが分かりやすいんですよ』 電話をかけてきたのは巡だった。さっきまで一緒に撮影をしていたから、俺と同じく相当疲れているだろうに明日のシーンの確認がしたくて電話をかけてきたらしい。 巡と同じ現場になって改めて気が付いた。こいつは本当に芝居が好きで、そして上手いということ。俺は監督の言う通り動いたり喋ったりするだけで精一杯なのに、巡は自分の考えを持って監督と意見交換するほどだ。 『分かりました、じゃあそっちのテンションでも考えときます。明日現場で監督にも聞いてみましょうか』 「………」 『もしもし?亮平さん?』 「巡さぁ……」 『?』 喉が渇いた。 そう思うと我慢出来なくなる。喉に何か詰まっている気がして、水を飲んでも飲んでもそれは解消されない。味のついているものだと余計に喉に張り付く気がして、だからいつも水ばかり飲んでしまうんだ。 「俺のことどう思う?」 質問しながら、冷蔵庫からペットボトルを取り出して蓋を開けた。 『……それはどういう意味で…』 「役者として、さ」 『あぁ…』 巡が思案している間、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む。500ミリのペットボトルはあっという間に半分近くなくなって、それでもまだ喉が重たい。 『……役者としては、俺は好きですよ』 やや間があって、いつもよりもっと落ち着いたトーンで巡が話し始めた。 『芝居に関しては正直まだ言わされてる感あるんで、もっと楽に言えるといいですよね。欲を言うと気持ち的な部分もっと乗せてもらえるとこっちもやりやすくなるんですけど…。セリフって話の中で必要だからあると思うんですけど、その言葉自体はその人が何かしら考えたり感じたりしたリアクションな訳だから、大事なセリフであろうがそうでなかろうが全部その人日常なんですよ。だから例えば“夏樹を演じてる有村陵平”じゃなくて、“澤田夏樹そのもの”として一日過ごしてみるとか、そういう稽古するのも面白いと思いますよ。やるなら俺も付き合いますんで』 「夏樹そのもの……」 『俺たちは役を代弁する入れ物ですけど、ただの“お人形”になっちゃダメだと思うんです。そうなったら使い捨てにされて終わりです。だから抗って抗って、監督たちの想像を超えてやりましょうよ』 ……やっぱりこいつは凄い。話を聞きながら、素直にそう思った。 監督の想像を超えるなんて、そんなふうに考えたこと一度もない。そもそも監督の正解が唯一だと思っていた俺にとっては目から鱗が落ちる考え方だった。湊さんもだいぶ凄い役者だと思ったけど、巡も負けたもんじゃないな。でもやっぱり少し悔しくて、それは言わずにおいた。 「それ、やろう」 『え?』 「そのものになるってやつ。明日予定合わせよ」 『……はい、ぜひ!』 電話を切って、明日へのやる気が満ちてくる。自分を引っ張り上げてくれる存在というのは、年齢とか芸歴とか、そんなもの関係ないんだ。だってこんなに明日が待ち遠しい。成長できる自分がいることが分かるのが嬉しくて、わくわくする。 そして同時に、何かが吹っ切れた音が聞こえた。比喩ではなく、頭の奥ですとんと何かが落ちた音がしたのだ。 もう大丈夫。何がと聞かれたら明確には答えられないけれど、でも、きっと大丈夫だ。 そんなおかしな確信を持って、俺は熱いシャワーを浴びて眠りについた。

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