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第19話 恋しちゃったんだ!
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「シーン27、カット55-。本番よーい…スタート!」
カチンコの短く乾いた音が響く。
ドライ、カメリハと来て、ようやく本番のカメラが回る。
演者の周りは一瞬で静けさに包まれまるでその周囲だけ時が止まったようになる。
みんなが俺を見ている。
恐ろしいことこの上ない。
映っていないだろう足元が微かに震えているのが分かる。
誰にも気付かれていませんように。
―……そんなことを思うのも、カットの声が掛かったあとなのだけど。
「どうだった?俺はいいと思うけど」
チェックのあと監督にそう聞かれる。
以前までの俺だったら、監督がいいならいいですと答えていたはずだ。
「……ちょっと、目線が。つーか顔微妙じゃないです?」
「そう?いい感じだったけど」
「ん~……」
「もっかいやる?」
「すんません、いいですか?」
本番が始まるときのあの静けさは未だに慣れない。嫌いと言ってもいいくらい。
それでも、自分からまたそこに飛びこむ度胸はついた。
多分、それはこいつのおかげ。
「お疲れさまです。亮平さんさっきのシーンすごい良かったですよ」
「……そりゃどうも」
「え、何でそんな不機嫌なんですか」
にこにこしながら俺の隣に座って弁当の蓋を開けるこいつ。
同じ事務所で後輩の、神生巡。
後輩だけど演技はうまい。俺なんかより何倍も。
「疲れた、もう台詞入んねー脳みそ爆発しそう」
「そういう時こそ糖分補給ですよ」
巡はそう言いながら、うなだれていた俺のひざにぽんと弁当を置いた。
生姜焼き弁当。……まあ悪くはないチョイスだ。
「………」
「早く食べないと時間なくなりますよ」
「ウソだね、俺次1時間後だもん」
「俺の時間がなくなるんですよ」
「監視係基準かよ」
「俺は厳しいですよ」
「知ってるっつーの」
睨もうと思って隣を見ると、巡はなぜか上機嫌で米を頬張っていて、悪態をつく毒気がすっと消えていった。
大人しく弁当を開けて、照りのいいタレがからんだ豚肉を放り込む。
うまい、でも、あったかい白メシが食いたいな。そう思う自分に少し笑える。
鞄の中のペットボトルは、以前よりは確実に減ったように思う。
「さーて、ラストスパート頑張りましょ!」
弁当を平らげて、巡は立ち上がってぐーっと伸びをしてそう言った。
まさにラストスパート。
こいつの残りの撮影には、長台詞のシーンが待っている。
巡と二人、W主演という形で始まった連続ドラマ。
その撮影も残すところあと一日だ。
あまり手離しで喜べるような視聴率は出なかったものの、中高生を中心にそれなりに見てもらえていたみたいだった。
学園モノだから演者も同世代の役者が多くて、あまり社交的ではない俺―それなりに自覚はある―も、友人と呼べる人が増えた現場だった。そして巡に引き上げてもらって、俺も少しだけ、監督と意見交換を出来るようになった。多分、それが一番の進歩。
明日の撮影が終わったら、巡の家で二人だけの打ち上げをすることになっている。
打ち上げと言っても、またいつものように巡にメシを作ってもらってそれを食うだけなんだけど。
*
「OKだな」
チェックを終えた監督の一言に、一気に肩の力が抜けていくのが分かった。
「ありがとうございます」」
「おつかれさん!」
「亮平くんと巡くんオールアップですお疲れ様でした~!!」
ADさんが声を張り上げて名前を言ってくれて、それをきっかけに拍手が起きる。
この瞬間が何よりも最高だ。まだまだ作業が残っているスタッフさんばかりの中、自分たちを労ってくれるのは本当に感謝しかない。
クリスマスが近いこともあってか、真っ赤なポインセチアの花束が俺と巡に渡された。
二人で何度も頭を下げる。最後の挨拶はやっぱり苦手だ。
空気のかたまりが喉に引っかかって鼻の奥が痛くなる。これはやばいやつだと思っても遅かった。
ぼろぼろと泣く俺の背中を、巡がしきりにさすってくれていた。
「ポインセチアの花言葉にはね、“祝福”っていうのがあるのよ」
後部座席で巡と目を合わせる。
花言葉なんて絶対興味ないだろと茶化すことさえ躊躇するほど、似合わない発言だ。
「……亜子さん大丈夫?熱でもあるの?」
「は?なんで?」
「いやだっていきなり花言葉とか言いだすから……情緒不安定?」
「ひっどー!花言葉のひとつやふたつ私だって知ってるわよ!亮平の中の私ってどんなガサツな人なわけ?!」
その会話を聞きながら、巡はけらけらと笑っていた。
「ほえ~…巡君ちおっきいのね……」
助手席の窓ガラスから外を見上げながら、亜子さんが感嘆の声を出している。
ご多分に洩れず予想通りのリアクション。俺もここに来るたび毎回「でけー家」と思ってチャイムを鳴らしているから、気持ちはよく分かる。
「亜子さん送ってくれてありがと!お疲れ様」
「お疲れ様でした、ありがとうございます」
「亮平も巡君も本っ当~にお疲れさま!しばらくゆっくり……って言いたいところだけど、そうもいかないかな。とりあえず今日明日はゆっくりしてね!」
「はーいありがと!閉めるよ」
バンと勢いよくドアを閉めると、白い社用車は景気よくエンジンを鳴らして消えて行った。
携帯をつけて時間を確認する。20時を少し過ぎたところ。
今から会社に戻って何時まで仕事をするのだろうか。
それともデートかな。
亜子さんの爪が新しい色になってるのを、にやにやと思い返していた。
「今日は打ち上げっぽく鍋にしました」
「打ち上げっぽいか?」
「ぽくないです?」
「分かんねーけど」
そんな談笑をしつつ、俺も適当に配膳を手伝う。
シメを雑炊にするかラーメンにするかで意見が合わなくて、巡は「この出汁なら絶対雑炊ですって!」と白菜をざく切りしながら力説していた。正直どっちでも良かったのだけど、出汁について語る巡が面白くて少し張り合っておいた。
「そう言えばさ、“あっちの方”ってのはどうなったの?」
「え?」
「撮影始まる前さ、こっちもあっちも頑張るって言ってたじゃん」
「ああ!……まあ、ぼちぼちですかね」
「ふーん……?」
「煮えましたよ、食べましょ」
「うまそう~いただきまーす」
全部撮り終わったという絶大な解放感とほんの少しの寂しさが入り混じる中で食べる鍋は、今までの人生の中で史上最高にうまかった。
*
「巡くんさ~、次は恋愛ドラマとかどう?!ベタな純愛ものでさ、絶対似合うと思うんだよな~」
「ほんとですか?是非やらせて頂きたいです!」
監督と和気あいあいと話す巡の姿を、少し遠目のテーブルから横目に見る。
今日はスタッフも含めた全体の打ち上げ。
編集作業も無事終わったようで、3日後の最終話の放送を残すのみだ。
正直、こういう大人数の場は好きじゃない。
得意か不得意かで言えば断然後者だし、いくらチームとは言え、親しくない人と話すのは苦手だ。
どうしてこの仕事をしてるのか(出来ているのかは別として)、自分でもたまに不思議になるほど。
主演が途中で抜けるなんてあり得ないですからね?と会場―都内のちょっとこじゃれた居酒屋―に着く前に巡から釘を刺されていたので、とりあえず最初の席から動かずにちまちまとつまみを食べていた。
その時、頭上から甲高い声が降って来た。
「夏樹くん、そんなとこに寂しくいないで向こう行こーよ~!」
気だるさを隠して顔を上げて見た顔は、ヒロイン役の野中楓さん。この人は俺のことを役名で呼ぶ。
「巡くんと話したいの、ついてきて~!」
気に入らないのは、巡の事は名前で呼ぶところ。
「一人で行けばいいじゃん」
「一人で行けたら夏樹くんに声掛けてないっての」
「あ、そ」
尊敬するのは、本読みの次の日からすでに俺たちにタメ口だったこと。
同世代だから許される懐の入り方だ。年上の共演者やスタッフさんにはきっちり敬語を使っている。
「お疲れ様でーす、私も入れて下さーい!」
ちゃっかり監督と巡の間に割って入る彼女にイライラしながら、俺は3人の対面に座った。
「何の話してたんですか?」
「次は巡で純愛ものやるかーって話」
「えー!それ私も出たいです!」
巡が関係ないように目の前のから揚げを食べ始めたのを見る。ふと目が合って、なぜか思わず逸らしてしまった。何となく腹の奥に消化しきれないもやもやが漂っているような気がして、誰のものか分からない水を3回飲み下した。
「野中は彼氏とかいるの?今なんてモテてしゃーない時期だろ」
監督が笑いながら野中をいじっている。やっぱり男はみんなかわいくて若い女子が好きなんだろうか。俺にはまったくわかんねーな、と思ったところでふと、巡はどうなんだろうと思い当たってしまった。
巡はどんな女がタイプなんだろう。
なぜかそんなことをぐるぐる考え始めてしまって、喉が重たくなる。
「え~彼氏ですか?ふふ、内緒です!でもいつも恋愛はしてたいなって思います~。ね!巡くんもそう思わない?」
いきなり話を振るもんだから何故か俺の方がドキッとしてしまった。
手持無沙汰をどうにかしたくて、冷え切ったムール貝を口へ放り込み聞き耳を立てる。(目の前にいるのだから、そうしなくても充分聞こえるんだけど)
「たしかに、好きな人がいると生活にメリハリができていいよね」
貝を咀嚼していた動きを思わず一瞬止めてしまった。喉で空気のかたまりが大きくなる。一番嫌いな感覚。なんで今そうなっているのか見当もつかないまま、通りかかった店員に「お水ください、3つ」と頼んだ。
「飲みすぎですよ」
人数分のふりをして頼んだけれど、全部俺が飲もうとしていることを目ざとく気がついた巡が二人にしか聞こえない声でちくりと忠告した。
打ち上げの帰り道、別に一緒に帰る約束をしているわけでもないのに、自然と二人並んで歩く。
未成年だと遅くまで付き合わされないので勝手が良い。いつもより少しだけゆっくり歩きながら、冷たい風に肩をすくませた。
「……お前、好きな子とかいたんだ?」
あくまでもさり気なく聞こうと思ったのに、若干声がぶっきらぼうになってしまった。
気になってしまって仕方がない。最近頻繁に会っていたし、連絡も取っていたし、家にも行ってるのに、そんな素振りがひとつも見えなくて、何より俺に一番に話してくれないのが少し寂しくてでも聞きたくない気もして、イラついていた。
「え?」
「さっき野中と話してたじゃん」
「ああ…彼女に言ったのは一般論ですよ。……まあ、いなくはないですけど」
“いなくはない”という言葉がガツンと頭に刺さる。
(……は?意味わかんねえ)
「だれ?野中?」
「あはは、違いますよ」
笑いながら否定されて、ほっとした。ほっと息を吐いて、吐き終わって今なんでほっとしたんだろうと疑問だった。
それがどうにも居心地が悪くて、こういう時俺の悪いクセは口悪くものを言ってしまうところだ。
分かっているのに、イライラが勝ってしまって止められない。
「は~。なんか、何でも器用にこなせる奴はいいよな。毎日楽しそうで」
「……あの、俺いま喧嘩売られてます?」
「売ってねーよ事実を言っただけだろ。主演しながら余裕のあるこった」
なんでこういう言葉はすらすら出てくるんだろう。自分の二面性に吐き気がする。
眉間にしわを寄せて巡の方を見たけど、巡はまるで動じてないといったように顔色ひとつ変えず、前を見ていた。
「……亮平さんからそんなふうに見えてたなんて意外です。でも実際まだまだですよ、器用でも何でもない。毎日楽しそうに見えるんなら、それはあえてそうしてるからです。次の仕事に繋げるためと言うか……誰だって暗い奴より明るい奴と仕事したくないですか?」
「………」
「芝居だって俺なりに必死で考えて練習して本番やってます。今回一緒に作ったんだから分かるでしょう。 “器用にこなしてる”ように見えました?他の人に言われるのは別に構いませんけど、一番近くにいた人にもそう思われるのはさすがに癪です。あと亮平さん、“自分はこういうの苦手だから”って壁作って輪に入ろうとしませんけど、それだって俺からしたらめちゃくちゃ勿体ないです。自信があるのか知りませんけど、そうやってがむしゃらにならない亮平さんこそ俺から見たら余裕ありますけどね」
口でこいつに敵うやつなんているんだろうか。何一つ反論する隙間がなくて、言葉が出なかった。
しかしどうやら、感情を理論で負かされるとイライラが倍増するらしい。喉と腹にとどまっている空気のかたまりが、カッと熱くなる感覚がした。
「……あっそ。悪かったなテキトーに芝居畑に足突っ込んで。どうぞご勝手にがむしゃらにやってください」
「適当だなんて言ってないじゃないですか」
「はいはいお疲れ」
「亮平さん!」
ちょうど駅について内心ほっとした。
巡の方を見ないまま足早にホームへとかけて行く。背中に視線を感じたけれど、本当にそうだったのか気のせいだったのかは分からない。
『お疲れ様です。さっきは言い過ぎました、生意気言ってすみません。亮平さんが適当だなんて思ってないですよ。一緒に作ってきたから、分かります』
電車に乗って数分後、巡からメッセージが届く。
外に流れる黒い箱と光の玉の連続を見ているうちに熱いイライラはしゅんと消えてしまった。
その代わりに勢いよく押し寄せててくる羞恥と後悔に、押しつぶされそうになる。
まあ実際物理的に、満員電車の人ごみにつぶされそうだったのだけど。
部屋に戻って、手も洗わずに冷蔵庫へ直行する。
庫内の電気が水のボトルの角に当たってきらきらしている様子を見る間もなく、一本手にとって勢いよく扉をしめた。
―…好きな人。スキナヒト?
例えば俺が湊さんに抱いていたようなあの身体が焼かれるような感情を、あいつも誰かに持っているのだろうか。
腹の中のもやもやが胃を圧迫する。解消したくてまたペットボトルに口をつけたけど、期待するような効果は得られなかった。
もう寝てしまおう。分からないことを考えるのはストレスでしかない。
せっかくこの場所で親友が出来たと思ったのに。
俺には何も話してくれないんだな。
そんな幼稚な反発心が芽生えるくらい、巡のそれが俺にとっては裏切りのように思えてならなかった。
*
「亮平、お昼行こ。遠藤さんも!一緒にどうですか?」
「あ?おー、もうそんな時間か」
打ち上げの日から10日あまり。打ち合わせと書類書きのために午前中会社に顔を出していた。
相変わらずあいつのことを考えるとイライラが膨れ上がるので、考えないようにしようということを考えてしまって結局ずっとイライラしている。
「遠藤さん忙しいです?」
「それなりになー」
「サクッとカレーにしますか」
「だな」
亜子さんと遠藤さんのメニュー会議を聞き流しながら、足取り重くその背中についていく。
遠藤さんは俺より背が高いから、亜子さんと並ぶと本当に凸凹コンビだ。
事務所から出てひとつ横断歩道を渡って左に曲がった先に、大手チェーンのカレー屋がある。
さっさとメシを済ませたい場合は、大体そこかビル一階の牛丼屋に行くらしい。横断歩道を渡り切る前に、亜子さんがぺらぺらとそのあたりのランチ事情を聞かせてくれた。
「ご注文お決まりですか~」
「チキンにこみカレーにゆでたまごトッピング辛さ普通で」
「俺も」
「じゃあ俺も」
「かしこまりました~お待ちくださ~い」
考えるのが面倒で亜子さんの呪文メニューに便乗しておいた。
注文し終わったところで、さて、というふうに亜子さんが居直る。
「亮平さ、どう?役者の仕事」
「は?どうって何が」
「だからぁ!好きとか楽しいとかもっとやりたいとかあるでしょ!」
もどかしいようにテーブルを軽く叩いて回答を急かす。誘導尋問であることに気付いているのだろうか。別に反論する理由もなかったので、「好き好き、楽しいもっとやりたい」と棒読みで答える。
「そう?!そ~!じゃーさじゃーさ、これ!やってみない?」
にんまりとしたお世辞にも可愛いとは言えない笑顔を張り付けて、亜子さんは黒い鞄の中からクリアファイルを取り出した。受け取ったファイルの中の書類を見る。
“(仮題)人気若手俳優による朗読会 ~明治・大正の文豪たち~”
一目見ただけでぶるっと寒気がして、概要も読まずにファイルを亜子さんに渡し返した。
「ムリムリ絶対無理。絶対眠くなるしそもそも朗読とか意味不明アナウンサーにやってもらえよ」
「だーいじょうぶだって!練習期間はたっぷりあるんだし、それにホラ見てよこのメンツ!ここに亮平が入ってんのすごすぎると思うの!」
そう言って亜子さんが指差すところを薄目で見る。
たしかに今売れてる同世代の俳優さんの名前が並んでいて、一番下に自分の名前があった。
おいおい五十音順なら俺が最初だろうが。と思ったけどもちろん言わない。
「ね?!私これ断りたくないのやろうよ~ね~!!」
「えぇ~……」
「お待たせしました~チキンにこみカレーゆでたまごトッピングで辛さ普通3つで~す」
のんびりした店員の声とともに、テーブルの上にどんっとカレー3皿が置かれる。
「いただきまーす」
律儀にそうつぶやいた遠藤さんにつられて、俺と亜子さんもカレーを流し込んだ。
(巡だったら、迷う間もなく引き受けるだろうな)
ふとそう思うのと同時に、数日前言われた言葉が頭の中によぎる。
『“自分はこういうの苦手だから”って壁作って輪に入ろうとしませんけど、それだって俺からしたらめちゃくちゃ勿体ないです。自信があるのか知りませんけど、そうやってがむしゃらにならない亮平さんこそ俺から見たら余裕ありますけどね』
「………亜子さん、俺その仕事やるわ」
最後のカレーを飲み込んで、気付けばそう言っていた。
「あ、亮平さん。お疲れ様です」
カレー屋から会社に戻ると巡がコーヒーを飲みながら紗也香さんらと談笑していた。
当たり前に挨拶をされ「おう」とだけ返事をしたが、心臓が一回悲鳴をあげるくらいには驚いた。今日来るって言ってたっけ。いやそんなこといちいち連絡しないのだけど。今は特に。
なんでもないように通り過ぎ、デロンギのコーヒーメーカーへ向かう。実はあの打ち上げ以来、巡からの連絡を微妙に無視し続けていた。例えばご飯行こうという誘いのメールも他愛のない無駄話も、数度のやりとりのあと一様にスルーし続けていたのだ。ガキくさいことこの上ない。でも、どうしようもなかった。
「亮平はクリスマスどーするの~?」
「え?」
紗也香さんが引き出しからクッキーの個包装をひとつ手渡してくれる間に、そんな質問をされた。
「別にどうも……。スケジュール見てないから分かんないや」
「そ~なのー?今時の子はみんなクールなのね~つまんないの!」
「みんな?」
そう言えばもうそんな時期か。
プラカップに粉砂糖とミルクを入れ、マドラーでくるくるまぜながら思う。
黒いコーヒーの表面が底の方から柔らかな茶色に変わっていく瞬間が好きだ。
「巡君も家の用事で忙しいって言うのよー。せっかくのクリスマスなのに、友達とかと遊ばないの~?」
「ふーん…。あ、これありがと」
クッキーをもらったお礼を言って、書きかけの書類を広げていた場所―フロアの隅に作られた、ローテーブルと布張りのソファが置いてある簡易的な応接スペース―へそそくさと戻る。家の用事……ってことはその“好きな人”とはクリスマスは会わないのか。またそんなことを考えている自分にはっとして、いれたてのコーヒーをぐぐっと飲んだ。
「亮平さん」
「……」
「このあと何かありますか?時間あったら映画でも行きません?今観たいのあるんですよ」
自分の用事はすでに終わったらしい巡に声を掛けられて、「……あー…」と気のない返事を返した。しばらくの間無言で机に向かい、計算し終えた交通費精算の書類と領収書をまとめて紗也香さんへ持って行く。
「ありがとー。亮平はいつもパーフェクトね~亜子ちゃんにも見習ってほしいな~あ」
「紗也香さんごめんなさい今週末には必ず!!いってきまーす!」
2人のやり取りに思わず笑ってしまった。
バタバタと外出していったマネージャーを見送りつつ、自分も帰り支度を整える。
はっきりした返事をしなかったからか、巡はまだ向かい合ったソファに座って携帯を見ていた。
「お疲れ様でしたー」
「おーす」「おつかれさま~」「お疲れ様でーす」
フロア全体に聞こえるように挨拶をして、それぞれの返事を聞きながら歩き出す。
巡がびっくりしたみたいな顔をして慌てて同じように挨拶するのを、俺は見向きもしなかった。
「亮平さん!ちょっと…ちょっと待って!」
事務所を出て数メートル先の廊下で追いつかれ、手首を掴まえられた。
さてここからどうしよう。今腹の奥からグラグラ来ている感情の正体を探しながら、振り返ってその群青の目を睨みつけた。
「なに」
「なにじゃないですよ、何で避けるんですか」
「避けてねーよ」
「避けてますよ。俺何かしましたか?この前のことですか?」
「なんでもねーようるせえなぁ!」
「何でもなくないでしょ!ちゃんと言ってくれなきゃ分かりませんよ!」
まるで理由が分からないみたいなすっとぼけた言い方に、腹のグラグラに一瞬で火がついた。掴まれていた手首を振りほどく。火があがる熱が喉を逆流して鋭い言葉となって口から飛び出してしまうのを、もう止められなかった。
「お前が……お前がいきなり好きな人いるとか言い出すからだろ!!全然知らなかったわどこのどいつだよ!何で言わねーんだよ俺のこと信頼してないってことかよ別にそれならそれでいいけど俺はお前のこと信頼して色んな…だっせえ姿とか見せて来たのに何なんだよ!仕事のことだってそうだよいっつも俺はお前に影響されてお前の言葉でやってみようとか頑張ろうとか思ってんのに俺はお前に嫌なことしか言えなくて……。とにかくお前のこと考えてると腹立つんだよ相手はどんなんかとか考えてるとイライラして死にそうになんだよ!!」
ほぼブレスなしで言いきって、思わず息が上がる。逸らしていた目をもう一度その群青に向けると、巡はぽかんとなんとも言えない間抜けな顔をしていた。
「………そう、ですか」
廊下がしんとなって、急に体温が上がった。
怒りをぶちまけてしまった恥ずかしさもさることながら、巡のぽかんとした顔を見て かわいいなんて思ってしまったから。
「……わり、帰るわ。おつかれ」
それだけ言って、返事も聞かずにビルの外へ出る。たまたま前を通ったタクシーを停めて、転がるように乗り込んだ。
これはやばい。
18年間生きてきて、この感覚は前に一度だけ経験したことがある。
ものすごくやばい。相手がまずい。どうしよう。でもどうしようもないことは分かっている。
あーーーーーーもう!
多分。
いや絶対。
好きなんだ。
巡のこと。
いつの間にか好きになってたんだ。
頭の中でとたんに整理がついて、その結論が居た堪れなくて窓ガラスに頭を勢いよくぶつけた。
運転手に「大丈夫ですか」と聞かれたけれど、俺は固く目を閉じてその感情をかみ砕くのに精一杯だった。
頭上に流れる快晴の空を見る余裕は、一秒もないまま。
*
『今日何かうるさくしてごめん。お気になさらず…m(_ _)m』
うだうだと30分ほど悩んでようやく送ったラインに即既読がついて、『いえ、全然大丈夫ですよ。で、映画いつ行きます?』と普段通りのテンションのメッセージが返ってきた。
ほっとしたような、でもちょっと肩透かしを食らったような。そんな微妙な心境になりつつも、俺も普通のノリで返事をしておいた。
『今週だったら、明日か土曜。土曜は一日オフ!』
『明日は学校のあと撮影なので、土曜にしましょうか。一日オフなら昼飯も行きませんか?午前中事務所に行くので、帰り原駅で降りますが』
『昼おけー!電車乗る時教えて~駅行くわ』
『了解です、よろしくお願いします!』
一通りのやり取りを終えて、なかなかぐったりしながらシャワーを浴びに行く。
俺が自分の気持ちに気付いたところで、事態が好転することなんてありえない。
だってあいつには、好きな人がいるんだから。
それを思い出して、ああだったら自覚しなければよかったのになあ。
と熱い雫の連続を受けながらぼんやりと考えた。
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