34 / 63

2

「あいつは、もういない」 「……うん、そうだね」  一年、一緒の職場で働いたかどうかだ。  それから隆司を引き取って、彼に苦労をさせないように、がむしゃらに働いて……。  いや、『どこの馬の骨とも知らない、あんたに養ってやるほどの甲斐性も度量もないだろ!』と吐き捨てられたことに対しての微かな対抗心からか。  しかし、それ以上に直行と早苗の忘れ形見である隆司と、自分を励まし続けてくれている彼と共に居たかったから。  気付けば委員会や係りなどの役が付いて、日々のリーダー業務に慣れて来たと思ったら、チームリーダーになり、新人指導の主体になり。  確かに、疲れはやってくる。  しかし、それはどんな仕事をしていても、何かしら付いて回るものではなかろうか?  隆司が自分を心配してくれるのは、解っているつもりだ。 「あんたは、もっと自分のことに対して時間を使え」  それは会議や委員会の集まり、勉強会で休日も職場へ赴くためか。 「隆司が家事手伝ってくれてるから、とっても助かってるよ?」 「その発言自体がおかしいだろ。家事はあんただけの仕事じゃない。一緒に生活してるんだ。やるのは当たり前だ。あんたが気負う事じゃない」 「う、うん。でも、学生の本分は勉強だよ?」 「明らかに、あんたの仕事との絶対量が違うだろ」 「う、うーん……」  色々と丸め込まれている気がするのは気のせいか? 「だから、あんたはもっと肩の力を抜け」 「それほど頑張りすぎてるつもりは無いんだけどなぁ。仕事だって、患者さんや家族の人から『ありがとう』って言われれば、うれしいし頑張ろうって思うよ? 確かに拘束時間長いし、色々あるけどね。それは仕方ないんじゃないのかなぁ」  時々精神的・体力的にきついのは確かだ。だが、それを上回る、隆司との時間を大切にしたいという気持ち。 「危険物があってもか?」  隆司が示したのは、言わずと知れた半年前の針刺し事故のことであろう。  感染症を持った患者に使用した針が誤って一磨に刺さった。それにより、感染経路である血液が体内に入った可能性もあり、キャリアー(保菌者)の疑いが出た。  そして今までそれほど間を空けずに肉体関係を持っていた二人の生活にも変化が起きた。  情交によって相手に感染症が移る事を怖れた一磨に、自分の欲望よりもその気持ちを優先した隆司。  針刺し事故が起こって丁度三ヶ月経った頃、急に息子の態度がよそよそしくなって、一磨は戸惑った。時間が経つにつれ、増していく不安感。まず、理由が解らないもどかしさ。  無視ではなく今まで通り、話はしてくれる。が、言いようの無い侘(わび)しさ。できるだけ一磨を視界に入れないようにしていた節があった。何か、自分は隆司に気づかない内に彼の機嫌を損ねる事をしたのかと一磨は悩んだ。  悩んで、悩んで、でも思い当たらず、では彼に新しく気になる人ができたのかと考えた。  十歳離れた自分より。  男の自分より。  親子である自分より。  何もない自分より。  彼に相応しい人は山ほどいる。  悲しいけれど、それでいいのかもしれないと自分を納得させようとした。  だが、後から後から溢れ出る、想いは一体ナニ? 『あいつがかずさんの事、離す訳ないじゃないっすかー。でなきゃ、それ渡さないと思いますよー?』  胸元に掛かっている隆司から渡されたモノを、彼の友人に示される。  でも、と言い掛ける一磨を黙らせた聡志(さとし)の計らいにより杞憂であることが発覚した。  一磨の我がままに付き合ってくれる、隆司の優しさ。  泣きたくなるほどの、愛情。  自分は、彼に返しきれないほどの。  大きな、深い、包まれるような、見守られるような。  そして、それがあたたかいだけでない、時に激しい事も知っている。 「危険な物があるのも、前からだよ」  今でこそ、採血の針が針刺し事故防止のため収納式になったが、一磨が新卒で入りたての頃は違った。少しずつ改善はみられているが、日進月歩の医療に追いついていけない事情もまだある。病院でのコストの関係も。  眉間に皺を寄せている息子に大丈夫だと微笑んだ。 「あ……、そういえば、テーブルの上に」 「あぁ、あんたが握ってた紙っ切れか?」 「う、ん。見て、くれる……?」  訝しげな顔でそれを覗いて、彼は片眉を上げた。 「陰性?」  その言葉を聞いて、一磨は長い長い溜め息によって、全ての空気と共に胸の内に巣食う不安を吐き出した。  結果は診察で知ってはいたが、彼に確認してもらうことによって実感できた気がする。 「今回の結果では、半年前の針刺しで罹(かか)ってないよってこと」 「そうか。よかったな」 「そう、だね」 「浮かないな」 「う、ん」  良いか、悪いかといわれれば、それは良いに決まっている。  しかし、現在その疾患によって苦しんでいる患者が何人も居る事は確かなのだ。  今のところ治療法がほとんど確立されていないため、彼らは病気と一生付き合っていかなければならない。悪化の恐れは付いて回る。身体的な苦痛だけでなく、精神的な面、病院に通わなければいけない時間的制約や治療・薬などに対する金銭的な負担や家族の負担など社会的な面と大なり小なりさまざまな苦痛を伴う。 「どこかで線引きしろ。苦しむのは、あんただ」 「そう、だね」  一磨の手の上に針を落とした同僚は自分を責め、辞表まで出した。  それを他の看護師と共に説得し何とか思いとどまらせた。  いくら強い力で患者が体当たりをして落としてしまったとしても、自分がもっと強い力で持っていたら。彼女はそう考えた。  その気持ちを考えるのならば陰性であったことはとても喜ばしいことである。

ともだちにシェアしよう!