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「考え込むな」
「……ぁ」
脱衣所に彼が来た事すら気付かず、ビクリと肩を揺らして驚いた一磨は背後から抱き込まれ、身動きが取れなくなった。
白くなるまでキツク握り締めてしまっていた指の力をほぐされ、言葉と共に包まれた両の手からあたたかさが染み渡る。
いつまでもこのままでもこうして居たい気になってしまう。
「あ、あの、放して……?」
これから、お風呂に入るから。
「洗ってやろうか?」
「っ! やっ……ん、ぁ……っ」
やや笑いを含んだような物言いの彼の手によって強制的に顎を上げさせられ、覆いかぶさってきた唇に塞がれる。仰け反る体勢で彼の侵入を簡単に許し、息も出来ないほどに荒々しく貪られる。
「ん、んっ……」
下腹部に回された腕に縋りつく事しか一磨に術は無かった。
やっと開放された唇と共に身体から力が抜け切り、ずるずると床へと近づいていく。
それを遮ったのも、彼の腕だった。
「っぁ、ま、って、ど、して……?」
「あんたが遅いからだろ」
耳元で吹き込まれるようにして囁かれ、ゾクリと何かが背筋を這う。
『体調が戻ったら』ではなかったのか?
その為に休息を取るように入浴を促してくれたのではなかったのか?
困惑した一磨をそのままに、隆司の手は目的を持ってシャツの裾から素肌を彷徨う。
「あ……」
彼の手が辿り着いた先には、キスだけでその存在を示してしまった突起。
半年間、就寝を共にし時折口付けを交わし、それだけだった生活でも憶えていた自分の身体。
彼を欲しがっている、この身体。
恥ずかしくて、でも一度灯ってしまった熱を自分ではどうしようもなくて、一磨は彼に縋りつつ、下唇を噛んで声を押し殺した。自分の現実を認めたくなくて、堅く瞑り目を逸らす。
「いい眺めだな」
首筋にちいさな痛みを覚えつつ、囁かれた声に誘われるように恐るおそる一磨は薄く目を開けた。
見慣れているはずの脱衣所は不規則に揺れて波打っている。
向けた視線の先には、欲に火照らせ男を欲しがって顔を歪ませた自分が写っていた。そして、鏡越しに絡み合う、隆司の強い視線。
「……ぁ……っゃ、やだぁ……」
羞恥からさらにボロボロと涙を零し、彼の視線から逃れるように再度キツク瞼を閉じて力なく首を振る。
とても隆司に背を預け続けることなんかできずに脱出を試みるも、腰をしっかりと抱かれ叶わない。
「──おい、何だこれ」
「ふ、ぁっな、なに……?」
示された場所は右わき腹。
そこには大きなシップが一枚貼られている。
「……あぁ、ンッ、そこ、蹴られた、とこ……っ」
「蹴られた?」
「っな、何で怒るのっ……?」
隆司が蹴られたわけでもないのに。
一段と纏う空気の気温が下がり、眉間に皺を寄せる隆司に一磨は尻込みした。
もう、離してほしい。
その割には自分の素肌を弄る彼の手は変わらず動いて、快感を追えば良いのか、しかし急に機嫌の悪くなった理由も知りたいので話をするかやめるか、どちらか一つにして欲しかった。
「は、離し……」
「言ってみろ。聞いてやる」
身を捩ってもやはり彼の手は離れない。
観念した一磨は、自分の舌で一度乾いた唇をぬらしてから熱い息の元、口を開いた。
その仕種に男が煽られているとも気付かないで。
「っん、これがあったの、は、昨日の昼間だったんだけど、ね」
アルコール中毒患者が居り、入院による禁酒生活で抜けてきた。禁断症状で強い興奮の中、動き回るだけではなく他者に暴力を振るうようになった。
「よかったよ。お腹が大きい妊婦さんが蹴られなくて」
受け持ちの看護師は妊婦であったため、もしも彼女が被害に遭っていたとしたら、大変なことだ。
それでなくとも、過酷な勤務のためか看護師の死産・流産の可能性はかなりの高率である。三人に一人は早流産を経験している状態だ。実際に着床して成長しても途中で胎児の発育が止まったり、胎児心音が聞こえなくなるなど様々。
何も問題ない自分でよかったと心から思う。
粗方話し終わると、背後から舌打ちと共に隆司が体重を掛けてきた。
ついでに長い溜め息も吐かれる。
「……どうせ、鈍臭(どんくさ)いよ」
幾分か拗ねたような声音でも俯いた彼は一磨の肩口から顔を上げなかった。
「馬鹿、違う。そんな事があったなら、もっと昨日痛そうにしてろ」
「? それ程じゃ、なかったよ? っあ、」
「……ふーん、『それ程』か」
素肌を弄っていた彼の手は一旦止まり、その代わりにシップを剥がしにかかっていた。
日に当たっていない不健康に白い肌へきれいに広がった内出血のアオ。
時間が経ってから自分の腹部を再確認し、思いのほか痣が濃く広がっていた。あの時痛かったはずだと、患者の足が当たったときの感触を思い出す。
「っえっと……そ、そう、見た目ほど痛くないよ!」
骨も内臓も無事だったし、傷も付いてないし。
「へーえ」
ダラダラと流れる嫌な汗をかきつつ、取って付けたような弁解に顔を上げた隆司の眉間の皺は解れない。
そして、やはり仕事を考え直させた方がいいだろうか?と一瞬頭を過ぎった隆司の心配を一磨は知らない。
「あんた、もっと自分を大切にしろ」
彼の力強い腕に捕らえられ、いつの間にか落とされたシャツから覗いた肩口にあたたかい口付け。
その間近には消えて無くならない、古い傷。
未だ抜け出せない、枷。
「そんな事より、もっともっと大切なことがあるだけだよ」
そう、何にも代えることのできない、タカラモノ。
「ふーん」
おもしろくなさそうに、鼻を鳴らす隆司に笑みが零れてしまった。
本人は一生気付かなくていい。
彼は彼のままで。
それが一磨の望み。
血の繋がっていない親子でも、年の離れた……恋人、でも。
六年に渡る偽りの家族ごっこも一年半前に終止符を打ち、新たに築いてきたこの関係。
今まで垣間見なかった相手を知り、多分相手にも知られ。
『思慮深く完璧な、気を張った保護者は要らない。もう、頑張らなくていい』
その言葉通りに、彼は幾度となく湧き上がる不安から自分を掬い出そうと手を差し伸べてくれている。張り詰めていた緊張の糸を解こうとしてくれている。
そして、自分はその大きな愛情に返すことが出来ていない。
何ができるだろうか。
考え込んでいた一磨は頬を包まれ、顔を上げさせられる。
「行くぞ」
「どこへ?」
「風呂だろ」
鏡越しにキレイに口角を上げた彼の顔を認めて、すぅっと一磨の血の気は引いた。
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