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急性増悪
大通りから一本脇道に逸れたマンションの一室。澤崎一磨(さわざきかずま)は布団の中、鳴り響く目覚まし時計を手探りで捜索した。
……ない。
仕方なくのっそりと這い出ると、そこは見慣れた自分の部屋ではなかった。
息子の、隆司(りゅうじ)の部屋。
ぼんやりとした働かない頭で考えてもやはり思い出せず、次に己の格好を顧(かえり)みて一拍遅れて耳まで朱に染めて固まった。
「……ぁ、」
肌蹴ている胸元に散りばめられている鬱血。視線を更に下に向ければ、内股やそこかしこにも。
つまりは、パジャマの上を着ただけの格好。しかも、隆司の。
──……そうだった、昨日。
師走の勤務が確定してから、彼から『覚悟しろ』と囁かれた。
年末年始をほぼ職場で過ごし、夜勤後のぼんやりとした身体に過ぎた快楽を刻み込まれた。
死ぬかと、思った。体力的にも、精神的にも。
ハチミツの様なトロトロの快美感も切り裂かれるような激しい律動からも逃げる術はなくて、与えられるままに喘いで啼いて。許しを請うたも最後は記憶もあやふやで、どのように眠りについたのかも定かではない。
それが俗に言われる『姫始め』であることは、この時の一磨には掠りもしない。
居たたまれず、軽い音を立てて布団に突っ伏する。彼の匂いに包まれながら、しばらく声も無く羞恥に悶えていたが、不意に思いついて視線を己の左手に移す。
何の変哲もない指に嵌(は)められたモノ。
『俺にだまされておけ』
したり顔でここに唇を寄せ、だがしかし自分をヒタリと捕らえたまま眼を逸らさなかった彼。
その強い視線と意思に押され、徐々にプライベートで曝すことの多くなった、このシルバー。
その為か、ふとした折に増える、彼との指先を絡める回数。
──しあわせ、だと思う。
自分を求めてくれる人が居る。
それが家族でも、親子でも、同性でも、恋人、でも。
かけがえのない人が自分を必要としてくれる、幸(さいわ)い。
そして、返しきれない自分の想い。
いつももらってばかりだ。
同時に沸き起こる、もどかしさ。
どうすれば──。
噛み締める幸福と共に、歯がゆさに痛むこめかみを押さながら部屋を進めば、テーブルに書き置きを見つける。
朝の挨拶と共にアルバイトに出掛ける事、これからの勤務に持って行く弁当の場所が記されてある。一見素っ気無いような内容であるが、端にある身体を労わる言葉に胸があたたかくなる。
その気遣いに重さを忘れていく、ココロ。
無意識にパジャマを掴んでいた拳も、解されていく気持ちに比例して徐々に力を抜いていく。
本当に、助けられている。
突如鳴り響いた電話の音に一磨の意識は逸らされた。
「はい、澤崎です」
普段よりもやや掠れた声に、ひとりで勝手に居たたまれなくなる。
「────え?」
ガツンと、鈍器で頭を殴られた様な衝撃。
そして、全ての音が、消え去った。
──いま、なんて……?
息を飲んで瞠目した一磨は、しばらく次の言葉を紡ぐことができなかった。
理解したのかどうかも解らないまま、自分がどのように返答したのかも曖昧で、無機質な機械音を響かせたままの受話器をただひたすら、抜け落ちた表情で呆然と握り締めていた。
「寒い……」
マフラーに顔を埋(うず)めて、一磨は呟いた。
仕事が終わって明け方。空がまだ白みもしない暗闇の中、クタクタの身体で何とはなしに足が向くまま歩けば、いつの間にか目の前には荒々しい白い波。
「……どうやって、来たんだろ?」
自分でも不思議でならない。よもや、歩きながら寝ていたのではあるまい。
街灯も少なく、澄んだ空気のため星も瞬(またた)いている。
白い息を上げながら、テクテクと進む海岸。
真っ暗なためか、真冬のためか、遊泳禁止のためか、己の他には誰一人として居ない。
「『初心』」
自分のはじまりは、ここと繋がった海だと思っていた。
母親の恋人たちにオモチャにされ、自分の生き方にも将来にも嫌気がさして辿り着いた場所。
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