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 死後、彼らの話を二人でこんなにゆっくりとしたのははじめてだろう。事故の起きた直後は隆司の記憶が一部飛んでいたのはもちろん、書類や雑務に追われてじっくりと感慨に浸る暇もなかった。  忙しさに感(かま)けて、気付かない振りをしていたのかもしれない。がむしゃらに過ごす日々に精一杯で、実際この八年という年月で芹沢夫婦の思い出話をしたのが、ほんの数回。  瞼を閉じた向こうに、色あせる事ない彼らのあの笑顔が見える。心のより所だった。  居なくなった事実は変えようがなく、それは生活の中で実感していた。彼らが居たという名残(なごり)はあるものの、辺りを見回しても捉えられぬ姿。  ──その、虚しさ。  亡くしたものの大きさを、改めて突きつけられる。  自分を引き止めてくれる、たくましい腕に首を傾けて頬を預ける。  耳を目を塞いで己の殻に籠もって、やさしくあたたかな湯に浸かるように過去に留まる事ができたら、どんなに心地よいだろう。だが、重ねる歳月は確かに記憶と感情の整理をしていき、これ程までに彼らを語れるようになった。  無意識に触れることを怖れて過ぎ去った時間もあったが、遺(のこ)された二人で振り返る事により、直行と早苗が確かに存在していたトキを垣間見られるまでになった。それは二人を過去の出来事として処理する事でもあるかもしれないが。  受け入れつつ、ある。  忘れ去るのではなく、過ごした日々を大切な思い出として。  少しずつではあるが、隆司も己も進んでいる。 「でも、」  一度区切って、緊張から乾ききった唇を湿らす。  心地よい芹沢家は、自分にとって偽りの場所。現実に耐え切れない一磨の甘えをやさしく受け入れ、否定しないでくれた。 「でも、本当の俺の場所は違って……あの、ね。顔を、覚えていないんだ」  父親は誰とも知らず。唯一肉親だと解っている母の顔すらもおぼろげで。  写真も、ない。  構ってもらった記憶も、ない。  薄情な息子だといわれた。  だが、みなして『似ている』という。 「顔が似てるってことなんだろうけど、すごく嫌だった」  男を渡り歩いていた彼女。  時には、一磨がひっそりと息を潜めるようにしていたアパートに連れ込み。その内の何人かの恋人たちは、幼い一磨にも手を出した。彼女はそれを知っていたか、そうでなかったのかは不明だったが。未だにどのように生活していたのか謎。  そんな彼女と、似ていると。  だから資格がないのだと常々思っていた。家族をつくることに対してはとても消極的で、子を残す子孫を残すなどという思考は掠めもせず、異性との関係もほぼ皆無に等しかった。  直行と早苗の事故が無かったら、自分は一生そのままだっただろう。たぶん、隆司のことも恩人であり大切な友人の子供という認識だけで終わっていた。 「『だった』か」 「……うん」  過去形になったのは理由がある。  『嫌』は変えることができない。 「──亡くなった、って」  昨日、勤務前に入った連絡。  訃報に不思議と涙は無かった。  あぁ、そうか。  限りある生命(いのち)を、彼女は思いのほか短い期間で締めくくった。  どこか他人事のように、淡々と理解した自分に反吐(へど)が出そうだ。仕事で担当の患者が亡くなった時も、他人であるはずの彼らの方がもっと感傷的になれるのに。 「そうか」  しばらく、無言で互いに体温を分け合う。  静かに流れる、時。  いやに大きく響く秒針の、音。  何も、ない。  けれど、一磨は彼とのこの空間に黙って身を預けていた。

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