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「──言わないんだね。どうする? とか、行ってやれ、とか」 「俺が口出すことじゃない。だから、ひとりであんな所に居たんだろうが」  静かに息を飲んだ後、己を包んでくれている目の前の彼の腕に顔を埋める。  何故、知っているのだろう?  何故、解ってくれているのだろう?  考えをまとめるため、落ち着けるため、たぶん無意識に荒波の海へと勝手に足が進んだ。 「っけ、結論、出てないかも、よ?」 「四通のメールに気づきもしなかった奴が、電話にとっとと出る理由くらいは解る」  考え込んでいた意識から浮上して、周りが見えるようになったから。そう、隆司は言う。  答えが出掛かっていたのは事実であったのかもしれない。だがしかし、迷い込みそうになる自分に力強い道しるべを与え続けてくれているのは、背後からぬくもりを分けてくれる、彼の存在。  自分を大切に抱き込んでくれている腕を押し返すようにして身を捩り、今度こそ一磨は隆司の瞳を見上げた。  これから口にすることを拒否されたら、一生機会は無いだろう。  乾いた下唇に一度歯を立て、無意識に緊張を飲む。 「っあ、あのね、……ぃ、一緒に、行って、くれる?」  生涯、足を踏み入れる事ないと思っていた、生家へ。  そこが、原点。  たとえ穢れていても、汚れていても。 「ああ」  その顔はいつ見ても眩しい。  額に落ちるやさしい口付けに陶然と酔った。  ひとつひとつ、登っていく。  軋(きし)む音を立てながら上る階段は、錆(さ)びと埃臭さを滲ませる。  眼と鼻の先にある扉は、逃れ切れない過去を封じた忌まわしい場所。 「無理しなくていい」  自分を案じた低い声に苦笑を漏らす。 「あんまり、甘やかさないでよ」  挫(くじ)けてしまいそうになる。  甘えきってしまいそうになる。 「……そうか」  怖気づいて知らず震えていた手を包まれ、染み渡るあたたかさ。  力を、貰う。 「……あ」 「どうした」 「大家さんに鍵借りてくるの、忘れた……」  生家に足を踏み入れる事のみ考えていたため、他の事柄が蔑(ないがし)ろになってしまった。 「……取ってくる。あんたここで待てるか?」 「あ、うん。ありがとう」  思案してから幼い子供のように頭を撫でられてやわらかに微笑まれ、恥ずかしさと共に湧き上がる安堵。  階段を下りていく広い背を見送り、一磨は古びた戸に向き合った。  来て、しまった。  思っていたよりも呆気なく、辿り着いてしまった。  記憶よりも小さな扉に、少しだけ感じる拍子抜け。以前はとてつもなく高く、そして重い牢獄の門か何かの様だった。脅威を自分で勝手に大きくしてしまっていた所もあったのだろう。  ──隆司が、居てくれたから。  剥がれかけている、木目を辿る。  この汚い部屋の片隅で、母と呼ばれる人は何を思って過ごしたのだろう。  恋人達と過ごすため、やはり子供の自分は邪魔な存在でしかなかったのか。  ひと時でも、自分のことを考えてくれたことがあったのだろうか?  十代半ばで自分を産み落とした母。  結局、彼女の両親や出生はおろか、生年月日や血液型も知らない。  彼女の子供として、自分は何を知っているのだろう。  答えてくれる人間が居なくとも、意味なく湧き上がる疑問。今まで考えもしなかった証拠だ。  自分が家族を持ち、大切な人を得て、改めて気付く。  たとえ庇護(ひご)される側の子供だったとしても、自分は彼女に何かをしたことがあっただろうか。もしも彼女が助けを必要としていた時があったとして、隆司の様に手を差し伸べようとしたのか。たとえ、ちいさな掌だったとしても考えついたことがあっただろうか。  否、だ。  何もしていない。  見えない振りをして、逃げた。  なんて、身勝手。  欲しいときだけ欲して、相手には何もなし。  自己嫌悪で顔を歪める。

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