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 人気のないアパートを後にして、しばらく土砂降りの中家路(いえじ)を急いだ。  雨が止むのを待つなどとは以ての外。  とにかくあの場所から離れるというのが二人の共通の意見だった。  途中、傘を購入したものの激しい雨粒によって見るも無残な濡れ鼠(ねずみ)にされ、自宅であるマンションに戻ってきた。  『澤崎』。  ──かえって、きた。  表札を確認して、言いようのない安堵感が身体を包む。  さほど会話らしい会話は交わさず雨に打たれ、帰宅した途端に温まって来いとバスルームに押し込まれた。肌のみならず、睦月の雨は身体の芯を冷やす。  途切れない水滴の行方を目では追いながら、一磨の意識は全く別の所にあった。  聞かれた、だろう。  確実に。  いつからかは知らないが。  闇に葬り去ろうとして、振り切れなかった、自分の過去。  向き合おうと決心はしたが、全てを隆司の前に曝すのとは話はまた別だ。わざわざ内容を打ち明けようとは思わない。卑怯であっても、極力隠しておきたかったというのが本音。あんな不快な事は彼の耳には入れたくなかった。自分から話した事はないので、たぶん彼の両親である直行も早苗も知らない事実だ。  それを、あの男──。  目一杯捻って噴き出る痛いほどのシャワーに身を任せ、若干だが頭が冷える。  滴る水は髪からも顎からも、様々な経路を辿って流れゆく。降りしきる雫を掌の内に溜めて、溢れる先を捉える。  この小さな手に掬(すく)えるのは、ほんの些細な事柄しかない。  あれもこれもと囲い、保っていられる許容量は限られている。  「総てを」とは望まないが、ただ「隆司と静かに過ごしたい」その想いさえ阻まれなければならないのか。それとも己には不似合いな、過ぎる幸いを嗜(たしな)めるものなのか。  抜いた力によって決壊したダムの間をサラサラと流れ落ちるモノは、音を立ててタイルに叩きつけられる。  はじめは何も無かったのだ。  芹沢家の三人に教えられたから在る、今の己。それは揺ぎない事実。 『オレのシルシは残ってるか?』 「……ぁ、」  不意に響いた耳障りな声に、カラカラになる喉。  再び立ち眩みを起したかのように、色褪せ狭くなる視界。  蘇る、ギラついた濁った眼。突き出た腹に、肌の色──。 「──……え?」  何かに引っかかり、一磨は強く握り締めていた腕の付け根を離した。  鬱血(うっけつ)した所が開放され、血が巡って色を取り戻し痺れを生むのにも気付かず思考に没頭する。  ザァー……。  強く叩く水音も今は耳に届かない。  肌の色に、あの薄い皮膚。特徴的な身体つき。 「っぅ、そ、……だ……」  閃いた事柄に一磨は愕然とした。  そうだ、あの症状は。  あれは、治療すれば治る可能性もある疾患の最終形態だ。  併せて思い出すのは、己を産み落とした人の聞かされた最期(さいご)。  声を漏らして無意識に顔を覆った一磨は自力で立っていられず、ずるずると壁に身体を預けた。  どちらが先だったのかは、解らない。もしかしたら、あの男が発症して母という人にうつしたのかもしれないし、逆かもしれない。真実は不明だが、ただ明らかに彼女の方が若く進行が早かった。そして、あの男もそれ程長くはないだろう。  確定はできない。しかし限りある経路のひとつであり、否定は出来ない。  四肢が、凍りつく。  呼吸を、忘れる。  襟元を握っていたはずの指先にはもう、感覚がない。  辿り着いてしまった仮説に、一磨はこの時ばかりは己の従事している職種を恨んだ。  検査データもなく医師でもないので診断はできないが、過去数年間の経験が病院の裏口からお見送りした患者達と合致し、高い確率で『そう』示唆している。  カタカタと、とても寒さだけでは片づけられない、震えが全身を襲う。

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