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 彼に抱かれれば、抱かれた分だけ、蓄積されていく、さいわい。  抜け出せない。  溺れたままに。  そんな危惧を知らぬ彼は一磨の目尻を拭い、張り付いた前髪を掻き分ける。親が子供にするかのように、やさしく落とされる唇。 「寝ろ」 「……ん」  絡められ、シーツに縫い付けられた掌を視界に映し、端的な言葉にそそのかされた一磨は涙に濡れた瞼を静かに閉じた。  夢うつつ、隣に人肌を感じて安心する。確認し、うとうととするを繰り返して、徐々にだがたゆたう意識は浮上する。 「……ん……ふ、ぁ」  口内を荒らされつつ、送り込まれる甘い水分に鼻から声が抜ける。互いに引かれる銀糸。溢れた唾液とも飲料水ともつかぬシズクを、押し戻すようにして口角に感触が残る。ゆっくりと離れていき、やっと視点の合ってきた男をぼんやりと眺める。 「起きたか」 「ん……」  閉じそうになる重いまぶたを擦ると、その手を阻止される。覚醒してきた意識でかすれた声に如何にして乱れたのかを知らされ、火照る顔を止められない。 「コレが何か解るか?」  許容を超える眩しさに目を眇め、渡された物の輪郭がぶれる。思うように指の力が入らず、一度は落としたそれを拾われる。 「……しゃ、しん?」  見覚えはない。  首を傾げつつ、甘ったるい疲労の残る身体を起こして隆司を見上げれば渋面が。 「年末、女が訪ねてきた。あんたに、だ」  再び目を向ける。  徐々にクリアになっていく視界で認めるのは、若い女の子と、彼女が抱いている赤ん坊。  ボンヤリとしばらく眺めて、それからパチンと閃いた事柄に、まさか、と想像して、でも、と否定を頭の中で繰り返す。そんな一磨を横目に、隆司は写真を取り上げ無表情に一瞥する。  勝手な仮説に戦慄く唇を止めることはできず、固唾を呑んで次の言葉を待つ。  第一なぜ、彼がこれを所持しているのか。 「あんただ。──正確には、あんたと母親だ」  手の内に戻ってきた、古ぼけた写真を声もなく凝視する。  こんな、顔だったのだろうか、彼女は。 「大家も断言したから間違いはないだろう」  いつの間に。  鍵を取りに行ったついでにでも、確認したのだろうか。隆司はあの場所を知らないはずなので、自分が男と話していた、あの間に。  抜かりない息子に内心舌を巻きつつ、思い出す放り投げられた言葉。 「……あの人。お金、取りに、来たの……?」  そういえば、男も母が金を強請(ねだ)りに来ただろうと嘲笑っていた。  他に彼女が、自分の元を訪れる謂(いわ)れはない。  カラカラに口が渇く。先ほど、甘く隆司と分けたはずなのに。  搾り出した声は無様に掠れていた。胃の存在を知らされるほどの気分の悪さに顔を顰めれば、大仰な溜め息ながらに小突かれる。 「頭使え」 「……う、でも」  他の理由を、何をどう考えろというのだ。  自分は、彼女の何も知らない。いや、知ろうともしなかった。  長い黒髪と後姿は記憶にある。うっすらとした輪郭までは多分、憶えていた。  一磨が成長するごとに彼女の恋人達から「よく似てきた」と下卑た笑いと共に言葉を寄越された。  それが嫌で嫌で仕方がなかった。  流れる血も遺伝子も、最も自分という存在を。  父親は何処の誰かも解らず。  男を渡り歩いていた、彼女。時にはひっそりと息を潜める一磨の居るアパートに連れ込んで。  勝手な人だと思っていた。それだけだ、自分の中の母という人物は。 「たった金目当てのだけのために、ソレを後生大事に三十年も持っているか? ──解るな?」  ぎこちなく赤ん坊を抱いた、少女。その顔には、戸惑いがありありと見て取れる。 「いつだったか、あんた言っただろ。出産は妊婦も赤ん坊も命がけだって」  あれは職場で数少ない男性看護師を自宅に呼んだ後、茶を飲みながら隆司の子供を見てみたいと話した時だ。骨の固まりきっていない頭を変形させながら懸命に産道を潜(くぐ)ってくる子供も、産み落とす母体も、さながら手術かなにかの様に出生(しゅっしょう)するのだと、確か話した覚えがある。 「ソレは、あんたたちにも適応されないのか?」  諭すようにして、静かに言葉を重ねられる。 「……でも、それじゃ……」  彼女なりに、一応でも気にかけていてくれていたと言うのだろうか。自分は生まれてきてはいけなかった、邪魔者ではなかったのだろうか。  長年の認識を、たった一枚の写真でひっくり返されそうになり、戸惑いは増すばかり。  仰いだ隆司はとても冗談を言っているようには見えない。  強張(こわば)った、彼女の顔。  母という人は、もしかしたら嫌っていたのではなく、どう接すればよいのか解らなかったのだろうか。数年前に一磨も隆司との関係に悩んで悩んだ所だ。今の自分の半分の年くらいだったはず。たった十代で幼いながらに、自分を産み落としたのだ。  自分はそんな孤独な彼女から逃げていたのか。  ずっと。

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