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「愛情が無かった訳ではないだろう。──一磨。」
呼ばれて視線を上げれば険しさから一変、向けられる表情に柔らかさが帯びる。
頬を、包まれる。
「『ひとつを磨く』んだろ? あんた、だ」
一磨。
彼女から貰った、たったひとつ。
自分を示す言葉を、そんな尊い物の様に扱ったこともなかった。
不意に身体を引き寄せられ、硬い表情に戻った彼は続ける。
「だが。あんたが母親や男たちから受けていた事は、今でこそ明るみになっているが確実に虐待だ。もちろん犯罪。覚悟のない中、生むのも罪。そこは履き違えるな」
暴行・暴力、ネグレクトと呼ばれる分類に入るのだろう。知識にはあるが、割り切って自分の感情と折り合いをつけるには、まだ時間が足りない。
「それを、然(しか)るべき機関に伝えない周りも同罪。直行と早苗も然り」
「っそ、それはちがっ!」
弾かれたように抗議を上げれば、眉間から皺の消えないままの面持ちで続きを促される。酷使して重ったるいなどと、腰を庇って弱音を吐いている場合ではない。
彼らには何ひとつ、罪はない。
「それは……俺が、待ってって」
直行も曲がったことは嫌いだが、それ以上に早苗はハッキリした性格だった。一磨が静止を掛けなければ、いの一番に乗り込んで行っただろう。あの時の彼女の握られた拳から滴る紅に、縋って頼んだのだ。
まるで自分のことのように、親身になってくれた人たちの厚意を無下にした。当時を思い出して、知らず顔が歪む。
「──芹沢の家から、嫌っていた家にそれでも帰っていたのは、何故だ。奨学金でも何でも借りて、バイトしながらでも一人暮らしできたはずだ」
ピンキリはあるが、基本的に看護の専門学校は格安だ。事実、バイト料で学費は稼げた。
言わんとしていることを掴み切れず、顔を顰める。
「それでも。ウチに入り浸りながらも、生家に戻っていたのは?」
問われて、今まで気にも留めなかった『何か』を考えるよう、細められた双眸に誘(いざな)われる。
芹沢家を出る時、虚しさで苦い物が込み上げてきても。母の恋人たちから嗤(わら)われて傷を抉られても。それでも、生家に足を向けたのは。
「気になっていたんじゃないのか? 心の隅でも、母親の事」
「え……」
顔のない彼女の姿に、忘れ去っていた表情が埋め込まれる。
皮切りに、急激に流れ込んでくる映像。
瞠目する一磨には、耳元で話してくれているはずの隆司の声も遠い。
「だから、家出しなかった。違うか?」
見て、もらいたかった。
ただ、それだけ。
「ぁ……」
声を漏らして、顔を覆う。
その視界に入れてもらいたかった。
愛情を、欲しかったのだ。母の。
とうの昔に諦めて彼方に置いてきたはず、だったのに。
ひとつずつのちいさな歪(ひず)みが、掛違いのボタンが、互いの溝を深くした。
「……ッどう、しよ……俺……」
気付かされた『何か』は、あまりにも遅すぎた。
──すべて、が。
壊れ物に触れるような指先に目尻を拭われ、揺れる視界の原因を知らされる。
たった一枚の写真に縋るようにして俯いていれば、包まれる。まるでちいさな子供をあやす様に撫でられる掌に、堰を切ったように溢れ出す。
想いも。
「……っふ、」
自分も、彼女も、不器用だったのだ。両方とも。長い間。
それが一番しっくりとくる。
母のために流れる、はじめて。
そそのかすように、やさしく擦られる背が侘しさをあたたかさに代えてくれた。
「──悪かった」
しばらくして落ち着いた頃、ポツリと漏らされる謝罪に借りていた胸から顔を上げる。
「ぇ……?」
散々迷惑を掛けた自分ならまだしも、彼からのモノに思い当たらず首を傾げる。
「本当は、あんたに言うつもりはなかった」
嘲笑した隆司は、未だ涙の痕が残る一磨の頬を辿る。
写真も、母親が尋ねてきたのも、全部。
無かったことに。
彼の言葉の意味が解らず目を瞬(しばた)かせば、クスリと溢される。
「あんたを取り戻しに来たんじゃないか、ってな」
「そん、な……」
隆司が導いてくれなければ、ココまで彼女を考えようとはしなかったはずだ。その思考過程がなければ、たとえ生きていた母に会ったとしても有無を言わさず追い返していたに違いない。
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