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 この患者の訴えは三十分前に体位変換をしたにも関わらず「向きを変えてくれ」である。かといい、コールなしで身体の向きを変えにいくと「なんでやる」と怒る。他の患者のところに居て、行くのが遅くなるとそれはそれで機嫌が悪くなる。先程の患者は話を聞いてくれる人ではないので、なだめるのには時間が掛かるはずだ。 「わたし、行ってきます」 「お願いね。こっち片しとくよ」  気を利かせた他チームの看護師が一磨の補助に行く。  その姿も見送りつつ、栗原はテキパキと急須や湯飲み・当人たちの夜食を片付けていく。これではゆっくりと休みも取れたものではない。一般人はこの状態を知っているのだろうか?いや、知らないなと結論付けて栗原は急須を洗い始め、そこでわずか三十分弱の休憩は終わりを告げた。  一磨は長い長い溜め息をついた。 「さすがに、疲れた……」  朦朧とした意識と眼に、昼日中の太陽は何にも勝る毒だった。  朝の検温の一番ばたばたする時間に、奥の部屋のそれなりに日常生活動作が自立している患者が急変。急いで処置室にベッドごと搬送。吸痰・酸素吸入・モニター装着・当直医師へ連絡・家族へ連絡・点滴のルート取り・心臓マッサージ・AEDの使用・時系列に事細かに記録・到着した医師の指示に従い点滴などの注入。どこの病棟も人手不足のため、応援を呼ぶ事も叶わない。すべてを看護師三人で手分けして行った。  その中でも「眼が覚めた」「身体の向きを変えて欲しい」「痰を取って」などのナースコールは鳴り止まず、動き回る患者は当然ながら大人しくなどしてくれず、安全面を考慮し申し訳ないと思いつつ安全ベルトを着用してもらい車椅子に乗車して頂いた。  結局、急変患者の処置をしつつ、他の患者の検温を回りおむつ交換をして体の向きを変え、口から食事摂取のできない人の食事をつなぎ、口から食べる事はできるが自分で食べられない人へ食事介助をし、うがいを促し、検温をパソコン入力して記録をし……。  すべての仕事が終了したのは正午をまわってからだった。間違っても八時間労働で収まる仕事量ではなかった。  心臓マッサージでパンパンになった両腕を投げ出して一磨はキッチンのテーブルに突っ伏した。  身体も精神も疲れ果てていて、シャワーを浴びるのも自室のベッドに戻るのも億劫だ。 「あー……。隆司が帰ってくる前に、夕食作っ……て……」  そこで一磨の意識は途切れた。  母親はそこそこ顔の整った女性だそうだ。輪郭や艶やかな長い黒髪とすらっとした後姿は記憶にあるのに、どんなに頑張っても一磨は肝心の表情を思い出す事ができなかった。薄情な息子だ。構ってもらった記憶が無いのでしょうがないといえば、そうなのかもしれない。だとすると、本当に親子なのかと疑問になるが、一磨は顔のパーツが母親似であると会った人間が判を押したようにことごとく口にするので、変に納得してしまっていた。母の顔を覚えていないのだから、確認のしようがなかった。写真も無い。  母という人は恋多き女であったため、一磨の父親は不明。とっかえひっかえ男を変えていた。多分、彼女もよく解っていないであろう。男の部屋に泊まりこみ、渡り歩く生活。時には男を連れて、一磨の居るアパートで過ごした。  何人もの彼氏の中には様々な者が居たが、ほとんど皆に共通しているものは「あの女に捨てられたくない」。それだけ母は良い女だったらしい。そのストレスが息子である一磨に向いた。  一磨が運び込まれた病院で研修医として働いていたのが、のちの隆司の父親・直行(なおゆき)であった。 「ぅんー……え?」  寝返りを打って一磨は飛び起きた。  見覚えのある自分のベッドである。時計は五時を指していた。辺りは薄暗い。夕方なのか、明け方なのか判断が付かず、一磨は自室を飛び出した。 「おや、かずさん。おはようございます。おじゃましてまーす」 「あ、聡志(さとし)いらっしゃい。ねえ、今って何日のいつの五時?」  勢い込んで尋ねた一磨に、隆司の友人は少々面食らいながら近寄ってきた一磨の寝癖を正してやりながら笑って答えてくれた。 「また時差ぼけですね。かずさんが帰ってきてから日付は変わってないっすよ。そして今は夕方の五時。十七時でーす」  了解? と校則に引っかかりそうな長髪を揺らしてにっこりと微笑まれ、安堵しかける。 「あっ、夕飯まだ作ってない!」 「それも問題ないっすよー。お宅の優秀な息子がテキパキとこなしてくれましたからー」  キッチンを伺うとなるほど、隆司が夕食の用意を終えるところだった。不機嫌そうな空気を発して。いつも以上に迫力がある。

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