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 ゆらゆら揺れている天井に違和感を覚えると共に、激しい吐き気を覚える。目を開けていることができず、視界を遮る。その腕には細いルートが、先には点滴が繋がっていた。  不思議に思っても、頭が働かない。重い。  途切れ途切れの意識をかき集めるように確か仕事中だったようなと、霞みがかった意識で思いついた。  一磨と隆司の間に取り返しのつかない出来事が起きてから、早一週間。一磨はだるい身体を引きずりつつ仕事に明け暮れていた。普段なら歓迎したくない連続勤務も今回ばかりは助かった。  正直、隆司とどう接して良いのか、解らないでいた。自宅でも、今まで以上に必要最低限しか会話していない。  ぼんやり考えていた所へ、音を立てて扉が開いた。  ひょっこりと顔を出したのは、同僚の栗原。 「ああ、眼が覚めたかい? かずちゃん」 「あ、くりはらさ……」 「急に起きるんじゃないよ。今度、鈴木さんにお礼言っときな。あんたが倒れたっつって、ナースコールで呼んでくれたよ」  そういえば、患者の検温に回っていたのだった。その途中で、ブラックアウトして気付いたら、ここ休憩室のソファに寝かされていた。点滴つきで。 「……ホントにどうしようもないなぁ」 「ほら、自己嫌悪に浸る前に、これでも飲みな」  コップを差し出される。  ありがたく受け取り、口を付けていると傍に椅子を引いて栗原がよいしょと腰を下ろした。 「この、おバカ。体調不良でぶっ倒れて」 「うっ……。返す言葉もありません」  申し訳なく、一磨はうな垂れた。  勤務に明け暮れている間、顔が白いだの何だのと同僚からだけでなく、患者やその家族からも声を掛けられたのだ。 「何に悩んでいるのか知らないけど、食事くらい摂りな。あんたがここ数日まともに食事してないのはお見通しだよ」  相談なら乗るよ。ついでとばかりに付け足され、ギンギンに張り詰めていた糸が不意にプツリと切れそうになる。  目頭が熱くなり、鼻の奥がつぅんとするのを隠すように、気分不快を装って再度ソファに沈み込み片手で顔を覆った。  彼女には、敵わない。  一磨が新卒でこの病院に就職する前からこの病棟におり、新人指導も彼女がしてくれた。  隆司を引き取ってからもずっと相談に乗り続けてくれ、まだ小学生だった彼を孫ができたみたいだと笑った。ちなみに、彼女は今年二人目の孫が生まれたところだ。  栗原に本当のことを言ってしまいそうになり、でも、と口を噤む。  当事者である、一磨もよく解っていない。ましてや、どう説明しろと?  働かない頭でぐるぐるしていると、彼女は優しい声でぽつりと漏らした。 「解んなくなったら、初心(しょしん)に戻りな」 「初心?」 「ああ。その時と同じは無理でも、思い出すとか同じことしてみるとか、場所へ行ってみるとかね。かずちゃん、悩むのは大切だけど、あんたの場合は考えすぎちまう事が往々にしてあると思うよ」 「…………うみ?」  初心と言われ、さざ波が耳の奥で蘇った。 「そう思うなら、気分転換も兼ねて行ってみればいいさ。幸いこれから連休だろう? そんでもって、今日これからの半休はこの栗原さんが師長(しちょう)から奪い取ってやったから、家でゆっくり休みな。お礼は『さわや』のきんつばで勘弁してやるから」  きれいなウインクを投げかけ、わしゃわしゃと一磨の頭を撫でる手は暖かい。  その手に、うっかり縋ってしまいそうになる。  しかし、これは自分と隆司の問題だ。他の誰でもない。  何かの、糸口を見つけた気がした。  終了した点滴の針を自分で抜き、師長と同僚へお詫びをした後、一磨の足は家ではなく花屋へ向かっていた。  まだ幾分か頭はぼうっとしていたが、点滴をしたおかげで血糖も上がり、水分も補えた。  菊を基調として見繕ってもらった花束を抱える。  目指すは街外れのちいさな霊園。そこに隆司の両親・直行と早苗が眠っている。  命日には数日早いが、まずは彼らに会いたい気分だった。  霊園は小高い山の上にあり、それに続く道は上り坂だ。アスファルトの長い道をゆっくりと歩いていく。  あそこに見えるのは、先程まで一磨が居た職場。すぐ近くには医師の寮。直行一家はしばらくそこで暮らした後、家族三人で広々と暮らせる土地に移った。現在は他人の手に渡りアパートが建っている。そこから暫く離れたところに、現在の一磨の住居。  あちらの山の遥か向こうは、一磨が生まれ育ち捨てた故郷。戻るつもりはさらさらないが、同時にそこの街にある、汚いちいさな診療所は直行と二度目に出会った場所。  あ、あそこは隆司と親子になって初めて行った動物園。「この歳になって動物園はないだろ」と当時の彼にぼやかれたものだ。  知らず、口元が緩む。  そうこうしている内に、目的の場所にたどり着いた。彼らの眠る場所は、霊園の一番奥の端。  水を汲み、花を生ける。途中で購入した線香に火を点けて立てる。  独特な匂いを発しながら、滑らかな曲線を描いて昇っていく紫煙を見送る。  六年。  片手では足りなくなったなぁとぼんやりと考える。 「ごめんなさい。一生懸命親子やろうとしたけど、やっぱり俺じゃ駄目でした。どうすれば、いいのかな? 直行さん、早苗さん」  この、こじれた親子関係を。

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