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それからしばらくして、その男の顔を見たのは汚い診療所の廊下。
一磨を見た直行の顔は、薄暗い場所でも解るほどに真っ青だった。
患者はこっちで、あんたは医者なのにおかしなものだと妙に冷めた頭で思った。
数日家を空けていた一磨は、母親の恋人たちに縛られ、啼かされ、朦朧とした意識で日付も判断できなくなるほどいたぶられ続けられた。切り傷と痣だらけで体液に塗(まみ)れ、身動きが取れない一磨を見て、男たちは安心した。
『もう、逃げられない』
歳を重ねるごとに似てくる一磨に母親を見た彼らは、帰ってこない一磨に焦ったのだ。
──捨てられる、と。
そして、自分たちの不安を打ち消すために力ない、弱い一磨を捕らえた。
寒さだけではない、悪寒が全身を包む。再び、自身を抱きこむ。
あの頃の傷の大半は治癒したが、十年以上たった今でも未だに残っているものもある。普段は見ないようにしているが、風呂や着替えで目に入ってしまうと吐き気を催す。
それなのに、なぜ隆司はこの汚い身体を抱いたのだろう?
「なんで、だろうね?」
ぽっかりと海に浮かんだ満月にそれとなく話しかける。
時折、厚い雲によって光を遮られるが、それでも昼間の太陽よりも明かりが強いように感じる。
浸した当初は足先だけだったが、気付けば膝まで波が来ている。
足は冷たすぎて感覚が無くなっていた。
周りを見渡すと岸だった所は海水に覆われていた。
世界でひとり、取り残されたような。
ついに、隆司にも必要とされなくなった。
自分が護るべき対象だった幼い少年は、自立した立派な青年に成長した。これから大学に通うので、金銭的にはまだ援助することになるが、彼はできるだけ自分で賄おうと奨学金を借り、高校から始めているバイトをそのまま続けるらしかった。
寂しい反面、大きくなったなぁと思う。誇らしい。
「でも、ほんと、どうしよ……」
一磨は溜め息を吐いた。
十六で直行と早苗に出会って、ランドセルを背負ったばかりの隆司に会わせてもらい、しばらくしたあと息子となった隆司と生活を共にするようになって、楽しみに成長を見続けてきた。
今までは直行、早苗、隆司の親子によって目的を見出していたのだ。
これから、何をしよう? どうしよう? というのが本音だ。
本格的に身の振り方を考えなければいけない。
「また、ひとりになっちゃった」
傾きかけた月に語りかけた。
はじめは、ひとりだったのだ。
もとに戻っただけ。
「こンの、馬鹿!!」
「…………え?」
──月に、怒られた……?
まさかとは思いつつ、まじまじと月を見上げるが、なんら変わりはない。ただ、そこに浮かんでいるだけだ。
バシッ!
小気味良い音を立てて頭に衝撃を受けるのと同時に、膝上まで浸かっていた海水から引き上げられて身体が宙に浮く。
そのまま脇に抱えられ、一磨の荷物も拾われる。
「……え、え? りゅ……隆司? どうしたの? どうし、あ、濡れる、よ? 降ろして!」
「黙ってろ」
すべてを黙らす、地を這うような低い声。
一磨には視線もくれず、隆司はただ前を向いてずんずん進んでいく。
これは、最上級に怒っている。
何を言っても隆司は答えてくれなかった。地面に降ろしてはくれたが、今度は腕を捕まれ逃げ出すことを許されない。大股で歩く隆司に付いていくためにやや小走りになりつつ、自宅へ戻る四十分の道のりに会話は無かった。
一磨がしゃべりかけても全く返答は無く、次第に虚しくなり足を進める事に集中するだけになった。
あそこに隆司が来る理由も、怒っている理由も皆目見当つかなかった。
「とっとと入って来い」
自宅へ着くとすぐに有無を言わせず、バスルームに押し込まれた。
水にかざしたはずの手に暖かさを感じる。それだけ、冷えていたのか。
隆司に引かれ続けていた左腕はずっと暖かいままだった。
そう、ずっと。
孤独だった一磨を芹沢一家は暖かく招きいれてくれた。
そんな彼らに自分には何を返せるだろう?
「──ぁ」
何気なく触れて視界に入れた左腕の付け根。そこには古傷がある。
あの時の。
お湯で温かくなってきたはずが、ぞわりと肌を逆立たせる。
すぐに視線を外して見なかった振りをする。
同じ腕に、嫌悪の象徴と暖かさが残る。
その、ぬくもりに助けられる。
何度も、なんども。
本当に、自分は──。
『──俺は、あんたとは家族ごっこはできない』
蘇る言葉。
いい加減、隆司を解放してあげよう。
もう、彼は子供じゃない。
自分もいつまでも引きずっているわけにはいかない。
もし今後疎遠になったとしても、一年に一回くらいは顔を見せてくれるであろうか?それとも、それすらも叶わなくなるのか。
今まで自分が不甲斐なかったせいだ。甘んじて受け入れよう。
鋭い朝日が差し込んでいる窓に、一磨は眩しさに眼を眇めた。
──夜が、明ける。
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