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内服指導

 うっすらと明るくなり、夜が明け始めたことを空の明るさで澤崎一磨(さわざきかずま)はぼうっとした頭で理解した。腕の時計を確認すると四時を示している。  なんて時間だ。身体も頭も思うように働かないはずである。二日続けて準夜勤務を行い、五十四人の患者を三人の看護師で見て周り、夜間の入院もあった。夜間は事務が機能してないに等しいため入院の手続きも書類渡しもアナムネ聴取も入力も全て、その勤務の看護師で行い、かつ自己の受け持ち患者も見て普段の業務もあるという多忙を極める。  見慣れたマンションの一室にやっとたどり着き、鍵を回すことさえ一苦労だった。チェーンは掛かっていない。同居人はしっかりと一磨の勤務を把握しており抜かりは無い。 「ただいまぁ」   習慣化された台詞を小声で掛けつつ、帰宅を知った黒猫二匹が眠そうな声を上げてまとわり付いてくるのを踏まないように避けてカバンを所定の位置に置く。  この時間ならば少し早いが、朝食の準備をしてしまおう。食材は何が残っていただろうか。動きの遅くなった頭でしばらく考えて、一磨はあることに思いついた。 「……その前に、水分とろ」  勤務中、食事はおろか水分摂取もトイレにも行っていなかったことに今更ながらに気づく。これではまた自己管理がなっていないと怒られかねない。  足音に気をつけつつ、コップに麦茶を注ぎ一息つき、人間らしい欲求を終えたところで緊張の糸も切れたのか、急に眠気が一磨を襲ってきた。 「ん……朝食の仕た、く……」  そこで一磨の意識は途切れた。  一磨には血の繋がらない息子がいる。もっとも、そう思っているのは本人のみで当の息子である隆司(りゅうじ)はその関係を解消したがっている。  恩人であり、年上の大切な友人でもあった隆司の両親がひどい事故で鬼籍の住人になってしまったのは、丁度この季節の七年前のことである。当時隆司は小学生、一磨は社会人一年目の師走だった。  一度に両親を亡くし、周りの大人たちの手によって施設へ入れられそうになったところを一も二も無く一磨がひきとった。力不足で保護者の役割を果たせないことも多々あり、あの頃引き取って本当によかったのか未だに自信が無い。そんな隆司も大学生になった。  去年は大学へ入る入らないから始まり、親子関係の解消を迫られたりと一見平穏だと思われていた隆司との生活に目まぐるしく変化があった。  ──こんな状態でも、許してくれるかな? そう、いつも全てを包んでくれるような、そのやさしい顔で……。 「……あ、直行(なおゆき)、さん……?」 「ぁあ?」 「…………え?」  とろとろとぬるま湯に浸かったような意識が水中から一気に引き上げられるように浮上して、見覚えのあるその顔に差し出そうとした手をそのままに、不機嫌な声音に一磨は固まった。  霞んでいた視界と頭が徐々にクリアになっていくのと同時に、ざあっと血の気が引いていくのが嫌というほど解った。  夢うつつで触れようとしたのは鬼籍の住人の彼ではなく、その息子であった。顔のパーツは似通うところも多々あるものの、全体的なイメージが違う。直行はあたたかなやさしい微笑をするが、隆司はその切れ長な強い瞳が弱められる事はほとんどない。一磨はそう思っている。  いくら疲れていて、寝ぼけていたとしてもなんて事をしたんだ、自分。  冷たい汗が背筋を流れていくのを感じつつ、急いで手を引っ込めて自室のベッドに沈んでいる上半身を起こした。  記憶があるのはキッチンまでだったので、多分彼がここまで運んできてくれたのであろう。くやしいが、かなり前から追い越された長身が自分を軽々と持ち上げるのを何度か体験したのは紛れも無い事実である。そして担がれたくせに、眼を覚まさないほどぐっすりと眠りこけてしまった自分に嫌悪でくらくらする。 「ご、ごめん。ありがとう、ここまで連れてきてくれたんだ。重かったでしょ」 「……ほお。その『ごめん』は何に掛かるんだ?」 「え、えっと……」 「時間はたっぷりとあるから、じっくり聞いてやれるぞ。安心しろ」  全く、力一杯安心できない。あまりにも分が悪すぎる。  明らかに雰囲気の重くなった義理の息子に一磨はどう返答したものか、狭いベッドの上を後ずさりずつ頭は空回りするばかりである。  隆司は実の父親である直行と似通ったところを特に嫌う節がある。先程、寝ぼけ眼で間違えたのを根に持っているのは明白である。  普段は年齢に見合わないほどに大人な息子の変なところでのこだわりに一磨は頭を捻る。 「この手で、何を掴もうとした? ん?」  不意に、先程伸ばしかけた左手を引かれて指を嵌れ、そのままの位置から鋭い視線が上げられる。コマ送りのように、いやにゆっくりした動作に見えたのは見間違いだろうか。  ──見られてる。 「っや……はなしっ」  その強い眼を見ていられなくて、隆司の視線を外せるわけでもないのにきつく眼を閉じて弱々しくかぶりを振った。下がった血流が今度は一気に上昇して、顔だけでなく耳の先まで急激に火照る。 「誰が聞くか」

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