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「……は?」  ──どういうことだ?  意味が解らず、頭が真っ白になる。ついでに、危うく包丁を足に落としそうになる。 「それか、俺、出てく」  帰宅時は無表情だった顔が、段々崩れてくる。 「りゅう、他に、いい人、見つけて?」 「今の関係を解消したい、のか?」  ちいさいが、確かに縦に首が振られる。  いきなりの「別れよう」発言に隆司は固まる。  昨日からおかしかったが、見当がつかない。 「……いいか、怒ってないから、まずは落ち着け」  肩を掴んで相手を刺激しないように、ゆっくりと諭す。  でも……と、ぐずる一磨を引きずり、ソファの上で男にしては小柄な身体を背後からやさしく抱え込んだ。  いつまでそうしていただろうか、次第に一磨の嗚咽も治まりぽつぽつと話し出した。 「おれ、隆司のこと、嫌いに、なれない、よ」 「なら、ならなくていいだろ」 「違くて……隆司に病気移したくない」 「……病気?」  こくりと頷いて、一磨は視線を落として自分の左手の甲を強く擦った。  事の起こりは、一人分の採血から。  検査のオーダーが医師から出されるのはいつもと変わらず、問題は検体を採取する患者にあった。その患者は俗に言う認知症が強くあった。抵抗も強く、おむつ交換時でも手足をバタつかせ、蹴ったり殴ったり抓ったりとする人で、看護師たちは痣だらけだった。抑制をしてもそれを上手くすり抜ける。当然、説明してもこちらの話を聞いてくれるような状態ではない。  そんな患者に一人の看護師だけで針を刺して血を採るのは無理な話である。  それ以前に、そんな前後不覚の状態の患者に検査をしなければならないかという疑問もあるが、同時に誰しも治療を受ける権利も存在する。  一磨は患者の腕を押さえて、針を刺す看護師が採血を実施しやすいようにしていた。その横では、別の看護師が足を抑えている。三人がかりであった。  無事に検査に必要な分の血液は採取でき、ほっとしたのがいけなかった。一瞬の隙をついて患者が暴れだし、当たった拍子に看護師が血液の付いた針を取り落とした。その下に一磨の左手があった。  患者には主科で掛かっていた病気の他に、感染症を持っていた。感染経路は血液。様々な物があるが、患者が持っていたものは感染力は他のものに比べて低く、症状は軽く見えるが、慢性化することが多く臓器不全や癌をひき起こし、また発生率は他のものに比べて数倍と高値である。  当然、看護師は皆手袋をしていたが、ナイロンの薄い手袋だ。針が刺さればひとたまりも無い。  針刺し事故が起こったとき、一磨はすぐに流水で血を洗い流して注射をし、医師の診察を受けた。検査もした。病院の感染委員会も立ち上がり、師長のみならず看護部長、副医院長や医院長まで話が及ぶ。  本日、病院へ足を運んだのは事後処理と報告書作成のためであった。 『看護師って仕事は、難儀な仕事さ。どんなに殴られても蹴られても看護しなきゃならない。まぁ今じゃあ、強制退院って方法もあるけど強い認知症なんかで治療を受けられないってのもおかしいって考え方もあるからね。当の患者が拒否したとしても家族やドクターの指示でやらなきゃいけない行為もある。針やメスや危険物はゴマンとある。人の命を背負う精神的負担──患者だけでなく家族も、ね。どんな理不尽なことを患者や家族に言われても対処しなきゃいけない。病院での治療や療養だけじゃなく、それが終わった後・自宅へ帰るなり施設へ行くなりに関しても視野にいれて支援してかなきゃいけない。給料も夜勤をやらなきゃあ基本給はそこいらの会社とそう変わらない。危険手当なんて入ってない。常に自分に降りかかるリスクを捌いていかなきゃならない』  隆司は昼間、栗原が口にした言葉を思い出していた。一磨を心配し自宅でもフォローしてほしいと、落ち込んでいる理由を話そうとしてくれた彼女へ、本人から聞くと断ったら語りはじめた。  ──なぜ、そんな仕事を続けていられるのだろうか。 『かずちゃんには、あんたも居たからね』  ──足枷、か。 『ばか言っちゃあいけないよ。それはかずちゃんへの侮辱につながる。いいかい? そこまでのリスクを犯しても、りゅうちゃんが大切だっただけの話』  ──他にも仕事はあっただろうに。 『選択したのはりゅうちゃん、あんたじゃなくて、かずちゃんだよ。それに、引き取ったのは就職したあとだろう?』  ──そういえば、そうだな。栗原さんは、定年した後もなぜ続けていられる? 『ああ、それはなあ「ありがとう」が強烈なんだよ。あと、入院患者が退院するとき』  だから辞められないと、ふっと笑った顔が印象的だった。  頭を垂れて、腕の中で一磨が身じろぐ。 「だからね、俺はキャリア(保因者)の可能性があるから、隆司は他の……」  ごしごしとずっと針が刺さったと思われる場所を、皮が剥けそうなほどに擦っている手を離させる。更に密着し、互いの体温の暖かさを分ける。

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