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第115話Homecoming

「…ただいま」 ハルが家に帰ってきた。 本当は一緒に帰ろうと思っていたのだが、解散になった後ハルと会長が二人で台本見て何か話していたので、つい怖気付いて一人で帰ってきてしまった。 「…なに突っ立ってんの、そんなとこで」 抑揚のない声でハルがそういうから、なにか言おうとしても言葉が出てこない。 「…お、おか…えり」 違う、そうじゃない。他にももっと言うことがあるだろ、俺。 「ん…ただいま」 ハルは少しふわっと笑って俺の頭を撫でた。 それに驚いて俺が固まっていると、そのまま部屋に行ってしまった。 怒ってはいないようだったが、やはり少し悲しそうだ。 その優しい手の感触と笑った顔を思い出して、胸の辺りが温かくなった気がした。 夕食の時間になるとハルは上の階から降りてくる。今度こそは話そうと息を吸い込むと、先にハルが言葉を発した。 「あ、俺明日実家帰るから」 「え」 箸で掴んでいた人参がポロリと落ちる。驚いていたから口が開きっぱなしになっていたかもしれない。 そんな俺の顔を見たからか、慌ててハルが言葉を付け足す。 「いや違うよ?お盆だから一日だけ」 「ああ…一日…」 「父さんね、毎年お盆の時期に一日だけ休んで出掛ける日があるんだよ」 「…お前もついて行くのか、それ」 「いや、俺はお留守番。兄貴はなんか知らないけどまだ叔父さんとこに居座ってるみたいだから、俺が代わりに」 留守番のためにわざわざ…と思ったが、実家は恐らく金目のものばかりだろうから、それも仕方ないのかもしれない。 「父さんだけじゃなくて上杉さんも一緒に行ってるんだよね…佳代子さんもって言ってたし、聡志のお父さんも行くのかな?」 「お前…飯とかどうすんの」 「一応家政婦さんいるから、その人に作ってもらうよ」 「……そうか」 「家政婦さんも昔からいる人だし、その人に留守番頼めばいいのにね?」 この際他人が作ったものを食べて欲しくないなどという意味のわからない我儘は言っていられない。 「帰ってくるのは…」 「父さん達が帰ってきてから。泊まってくるって言ってたから明後日になるかな」 「明後日…わかった」 家の事だからしょうがないと自分に言い聞かせつつ、明日は一人で何をしようと考えながら家事や風呂を終えてベッドに入る。今日もハルとは別のベッドだ。 枕に顔を埋めて唸っていると、あることに気づいて思わず一人で声を出してしまう。 「あ。何も話してない…」 昨日のことも、会長のことも何一つ聞けなかった。ハルは明日の早朝から家を空けてしまうらしいから、戻ってくるまで話せそうにない。 自分の行動力の無さにため息が出る。 いつから俺はこんなに弱くなってしまったのだろう。いや、もともと弱かったのかもしれない。 今まで誰かの一言で一喜一憂することなんて、そう無かったのに。 俺がハルを好きなのは、普通のことじゃない。ましてやさんざん酷い目に合わされた後だというのに。 人の心は、確かに単純なのかもしれない。ハルの心が変わってしまっても、俺は受け入れられるだろうか。 俺の心はきっと変わらないから、だからハルも…都合のいいことばかり考えてしまうのは、俺も同じだった。 気持ち早めに起きてリビングに降りてみたのだが、ハルの姿はもうない。 代わりに、抜け殻のように脱ぎ散らかした服が点々と落ちていた。 溜息をついて服を回収し、畳んでソファの上に置く。前ほど酷くはないが、最近またハルが片付けを怠るようになった気がする。 「ん…?なんだこれ」 ついでにリビングの片付けをしていると、箱の中に入った瓶を見つける。中には一本しか入っておらず、サイズは小さめだった。 栄養ドリンクか何かかと思い瓶のラベルを見てみると英語で何やら書いてある。 「てんぷてーしょん…?」 どういう意味か分からないが、賞味期限のようなものも隣に書かれている。 賞味期限は今日まで…ハルが帰ってくるのは明日だし、どうせ帰ってきても忘れているか、賞味期限切れで捨てるかのどちらかだ。 勿体無いので飲んでしまおう。 そう思って瓶を開け、一気に飲み干した。 「うえ…まっず」 なんとも言えない不味さの上に、異常に味が濃い。もう既に賞味期限が切れているのではないかと疑うレベルだ。 瓶を洗って、乾かすために日当たりのいいリビングのローテーブルに布巾を敷いて置いた。 特にすることがない。家事を一通り終えたら本当に何もすることがなくなってしまった。 部屋のベッドに寝っ転がっていると、いつもほぼ使っていないスマートフォンが通知音を発しているのに気づく。 画面を見るとハルからのメッセージが何件も来ているのがわかった。 『家ついた』 『部屋篭ってる、ひま』 『ご飯食べた』 わざわざ報告する必要なんてないのに、したことを逐一送ってきているようだ。 下までスクロールすると、1分前に『寂しくない?』と送られてきているのが最新だった。 子供じゃあるまいし…そう思い、『別に』と返信する。 これでは冷たいだろうか。ハルが使っているようなメッセージ用のスタンプを使おうかと見てみるが、どれを送っていいかわからない。 「あっ…」 スタンプを探しているうちに、誤って何か送ってしまったようだ。 確認すると、可愛らしい絵柄の犬のキャラクターが「I miss you」と言っているスタンプだった。 消そうと思った瞬間に既読がついてしまう。焦ったものの、どうやら返信は来ないようだったのでほっと胸をなでおろした。 スマートフォンを置いて、再度ベッドの上に転がる。 明日ハルが帰ってきたら話したいことを頭の中で整理した。 この前のはどういう意味だったのか、ハルは会長が好きになったのか…面と向かってこんなことを聞けるかは分からない。 けれど、伝えるなら自分の言葉で伝えたい。少し前までの俺だったら、きっとこんな考えには至らないだろう。 ハルの答えがどうであっても俺はそれを受け入れる他ない。 でもそうしたら…もうハルの側にはいられない。 ハルが俺のことを嫌いになったわけでなくても、俺以外に相応しい人がいるのなら俺は必要ない。 母親もそうだった。母親にとって俺は自分の面目を守るための道具に過ぎなかったのに、その役割すら果たせなくて邪魔になった。生活の面倒を見てくれるだけの、都合のいい存在。 心の拠り所にしていたのは俺でも父親でもなく、他の男だ。 それすら無くなって酒に溺れて、邪魔な子供を残して一人で死んだ。 案外短いものだったな。独りになることなんて慣れているはずなのに、寂しくて仕方が無い。 今まで生きてきて寂しい思いは何度もしてきたが、それを素直に伝えることは一度も無かった。伝えたところで、その思いが消えることなどないのだから。 俺がハルと離れる時は、俺の人生そのものが終わる時だ。 どんな形であれ、それは変わらない。 茫然としていると時間は知らぬ間に過ぎてゆき、気づけば夏の空が赤く焼ける頃になっていた。 食欲は無いので風呂に入って寝ることにした。風呂をあがった時、体に違和感を覚える。 熱い。身体中が焼けるように熱い。 倦怠感などはないから風邪をひいたわけではなさそうだ。 内側から身体が疼くような、今まで感じたことのない感覚。吐息が漏れて、下半身に熱が集まっているような気がした。 服が擦れるだけで身体が震える。似たようなことが前にもあった気がするが、それの何倍も辛い。どうして今、こんなことに… よろよろとソファに倒れると、ふと机の上のものが目に入る。 栄養ドリンクだと思って飲み干したもの。 これほどまでに自分が馬鹿だと思ったことは無かった。

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