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第130話The End

扉を叩き続けてからどれくらい経っただろう。 実際には1分も経っていなかったのかもしれない。 けれど俺にはそれが何時間にも感ぜられるほど長く思えてしまって、ようやく開いた扉から慌てて飛び出してきたハルに縋り付いた。 「勇也、どうしたの?カードキー持ってたんじゃ…」 「たす、たすけ…ハル…ひっ…ぁ…」 「とりあえず中に入って!」 ハルにほとんど抱えられるようにして家の中へ入る。 過呼吸は治まる兆しを見せず、喋ろうとしても意味のある言葉を紡げない。 「はっ…あ、ハル…」 「落ち着いて、大丈夫…俺はここにちゃんといるよ」 俺の体を強く抱き締めて背中を何度もさすった。 それでも中々呼吸は整わず、ハルは俺が落ち着くまでずっとその場を離れなかった。 「今回は酷いね…何があったの、言ってごらん」 「そ、れは…」 父親だったものがいた。 言うべきか否か。本人かどうかまだ確証はないし、俺の方が昔と変わったから気づかれてはいないかもしれない。 「昔の嫌なこと、思い出した?」 俺を気遣って父親というワードを出さないでくれている。ここできっと俺が本当のことを話したらまた過呼吸になってハルに迷惑をかけてしまう。 「ん…なんでか、急に…も、大丈夫だから」 「本当に?今日は無理してご飯作らなくても…」 「お前の、ためだから…」 眉根を寄せ困ったような顔をして笑いながら優しく頭を撫でた。 「じゃあ、俺も手伝うからゆっくり作ろう」 ハルと二人でキッチンに並んで料理を作る。 当たり前の日常のようだけれど、前までは絶対にありえなかった光景。 「来年は、海に行こう」 「は?なんだよいきなり」 「来年は夏らしいことしようって言ったでしょ」 そういえば、あの時俺が教えてくれと頼んだのだった。 まだ気持ちは落ち着かず不安定だけれど、ハルの話に耳を傾けながら卵を割った。 「勇也、肌弱いから日焼け止めちゃんと塗ろうね」 「なんで知ってんだよ」 「勇也のことならなんでも知ってる」 またその言葉。出会ったばかりの頃はどん引きだったが、今はそれが愛故の行為だと分かっているからなんとも言えない。 「夏祭りにも行こうか。人多いけど、勇也に浴衣着せたいし。あと普通にデートもして、それから…」 楽しそうに話すハルの横顔を見て、何度も自分に言い聞かせた。 ひとりじゃない。ハルがいる。 食卓を囲んで、二人でオムライスを食べた。 初めて作った時と同じくらい、ハルは喜んで美味しいと言ってくれる。 大丈夫、この幸せは自分で守る。 俺はハルのためだったら何を犠牲にしてもいい。 「今日は一緒に寝ていいよね」 「え、あ…ああ」 「大丈夫、ちゃんと我慢するよ」 言った通り、ハルはベッドの中で俺をただ抱きしめるだけだった。 気持ちはだいぶ落ち着いた。 あのスーパーに行かなければいい話だ。あっちの方面にはあまり行かないし、明日からまた佳代子さんが家に来る。だから大丈夫。 「ねえ、俺達もう恋人同士なんだよね」 「何回も言うなよ…その、恥ずかしい」 「嬉しくて…本当に。今日は勇也も俺のこと好きって何回も言ってくれたし」 「あ、あれは…焦ってたっていうか」 顔が見えているわけじゃないのに、熱くなった顔を隠すように腕で覆ってしまう。 それを解いて、額にキスを落とされる。 「勇也も今日、こうやってくれたよね」 「お前がアドリブばっかするからだよ」 「仕返しだったの?可愛い」 今日の話を聞いた手前、可愛いって言うなとは返せなかった。ハルが言ってくれるのなら、嬉しい。ハルの背中に腕を回して抱き締め返す。 いなくならないように、目の前の幸せが逃げていかないように。 「どうしたの、今日は甘えたがりだね?いつもそうしてくれればいいのに」 「悪い…こうしないと、落ち着かねえんだ」 「いつもは逆なのにね。ベッド、狭くない?いつ新しいの買おうか」 セミダブルのベッド。たしかに、男二人で寝るには充分な広さとは言えない。 「いい。このままでいい」 「そう?勇也がそう言うなら」 なかなか自分からは素直に甘えられない。だから近くにいる言い訳がほしい。狭いベッドで二人、離れずにいたい。 ハルの腕の中で、朝を迎えた。 目を覚ますと、珍しく先にハルが起きている。 どこか困ったような顔をして、スマートフォンの画面を見つめていた。 「どうした…」 「あ、起きてたんだ。おはよう」 時計を見るとまだ朝7時。ハルにしては大分早起きだ。 「それがね、家の方からまた呼び出しがあって…多分兄貴の話だと思うんだけど」 「お前の兄ちゃん、なんかあったのか」 「夏休みが終わっても家に帰ってないらしくて。悪いけど、行ってきていいかな」 あれだけ家のことを嫌っていたのに、なんだかんだ言ってハルは自分の家を大切にしているようだった。面倒臭いというよりは、何故か苦しそうな顔をしている。 「ああ、どうせ今日は佳代子さんが来るし、俺は家で待ってる。飯はどうする?」 「昼までには帰るよ。朝食はいいや、緊張して食べられそうにないから」 なぜ実家に帰るだけでそこまで緊張しなければならないのだろうか。ハルの父には会ったことがあるからわかるのだが、兄や母については断片的にしか知らない。 「わかった、気をつけてな」 「うん、行ってきます」 不意打ちにキスをされて、そのままハルは家を出ていく。 まだ熱の残る唇に触れて、閉まっていく扉を眺めた。本当は行かないでほしいなんて、声に出して言えるわけがない。 昨日のことがあったから家に一人残されるのは心細くて仕方なかった。 気を紛らわすために軽く朝食を作って食べていると、インターホンの音が聞こえた。 時計を見るとまだ9時だ。佳代子さんが来るとしてもいつもは昼頃なのに、今日は少し早いのだろうか。インターホンを押したということは両手に荷物を沢山持っているということだろう。 小走りに玄関へ向かう。扉を開こうとして一度手が止まる。 もし、もし外にいるのが佳代子さんでなかったら。なによりこんな早い時間に来るのはおかしい。 恐る恐るスコープから外を覗くと、そこに居たのはいつも通りの柔らかな笑顔を浮かべている佳代子さんだった。 安堵して扉を開き中へ招き入れる。 「ごめんなさい、お休み明けだから早めに来ちゃったの」 「いえ、大丈夫です…どうぞ」 佳代子さんはいつも通りの食材だけでなく、お土産だと言ってお菓子まで持ってきてくれた。 一人でいるのは不安だったから、佳代子さんがいるだけでも大分心強かった。 「劇、私も見に行ったんだけどね、あのジュリエットの子すごいのね!喋ってないのにあんな感動する演技できるなんて…二人とも知り合いの子かしら?」 ジュリエットの話をされてギクリとする。 知り合いというか、なんというか、俺本人なのだが。本当にバレないものなのか、メイクの力は偉大だと改めて思った。 「あの…実は、あれ俺なんです」 そう言うと佳代子さんは耳が痛くなるほど大きく叫んで、俺の顔をじっと見てから納得したように頷いた。 物凄い称賛されてしまったが、今思い返しても恥ずかしい。 それからしばらくは劇の感想をずっと述べていてくれた。 「それでね、上杉くんも息子さんの演技見て号泣しちゃって…三人とも忙しいのに息子の演技見たいって言って無理矢理来るものだから、今日はきっと皆大忙しね」 「あいつにも、お父さん喜んでたって伝えておきます」 「ええ、そうしてあげて。二人ともうまく話せてないだろうから…またおしゃべりしすぎたわね、私ったらもう」 あと1時間もすればハルも帰ってくるはずだ。 その間に佳代子さんが来てくれてだいぶ助かっている。 お礼を言って佳代子さんを玄関まで送り、リビングへ戻った。 佳代子さんが帰ってから10分ほどすると、またインターホンが聞こえる。 佳代子さんが忘れ物をしたのだろうか?それともハルが帰ってきたのか。 ロックを解除して扉を開く。 「忘れ物か何か__ 」 次の瞬間、口元を大きな手で押さえられる。 家の中に押し込まれ、その人物も一緒に中へ入り玄関の扉を閉めた。 「久しぶりだな、愛息子」

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