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第131話The End②

愛息子。わざとらしくそんな言い方をしたその男は卑しい目付きでこちらを見下ろしている。 恐怖で腰が抜けて立ち上がれない。手で口を塞がれたまま玄関に入ってすぐの床へ体が押さえつけられた。 「こんなんになっちまったのか。昔はもっと可愛かったのによ。まあ、親がこんなんじゃ無理もねえか」 どうして何も確認せず扉を開けてしまったのか。 今目の前にいるのは間違いなく父親であったもの、そして昨日目が合ってしまった男だ。 何か、何か言わなければ。今の俺はもう弱くない。こいつ相手だって充分に抵抗できるはずだ。 それなのに体が金縛りにでもあったかのように動いてくれない。 「昨日だって折角運命的に再会できたのによぉ、何も逃げることねえだろ」 「っ…ん…んん」 「ああ、これじゃあなにも喋れないよな」 手を離されると、酸素が一気に入り込んできて激しく噎せる。また過呼吸になりかけて、鼓動が加速していった。 「な…で…なんで…おまえ」 「父親に向かってお前とはなんだ」 記憶に植え付けられていた父親はそれよりも少し老けていて、前よりも幾分か痩せたように見えた。 力は依然として強かったが、今の自分なら張り合えるはずだ。 それなのに身体が震えてびくともしない。 片手で首を掴まれて、指に力を込められると息が苦しくなっていく。 「ひっ…あ…ぁ…!」 「弱っちいのは変わってないのか?」 そう言ったそいつは顔が赤らんでいて酒臭い。 こうやって乱暴な振る舞いをするのは酒を飲んだ後に限っていた。 この後俺はどうなってしまうのだろう。 それを考えようとしても思考がショートしてしまってただ混乱するだけだった。 「今日は何もしない」 そう言って手を離すと、俺に小さく折りたたまれたメモ書きを押し付けてきた。 「明日、ここに書いてあるところに来い。必ず一人で来るんだ。誰かにバラしたりサツに言ったりするんじゃないぞ。小笠原遥人に危害を加えて欲しくなかったらな」 小笠原遥人 何故こいつがその名前を知っているのだろうか。 「来なかったら…分かってるな?」 それだけ残して、家から出ていった。 どうすることも出来なくてその場に蹲る。 どうして、何でよりによってこんな時に。 ハルと一緒に幸せになれる 学校に馴染んでこの先も生きていける そう思い始めることができたというのに。 なんとかソファまで這いずって呼吸を整えていると、ドアの開く音が聞こえる。 さっき鍵を閉めていなかった。もしかしたらと思うとまた呼吸が乱れて、リビングに近づいてくる足音に怯えて動けなくなった。 「ただいま…勇也?どうしたの、大丈夫?」 駆け寄ってきたハルを見て安心したのと同時に、さっき言われたことがフラッシュバックする。 __小笠原遥人に危害を加えて欲しくなかったらな 言えない。ハルには絶対に言えない。 誰にも助けを求めたりしてはいけない。 ハルのためなら、俺は 「すごい汗…何があったの」 「大丈夫、ちょっと疲れただけだ」 「そんな訳無いでしょ、ちゃんと言って」 ハルのその真っ直ぐな目が、大好きな目が自分を苦しめる。 「本当に…大丈夫だから、飯、作るから」 「ごめん、俺ちょっとご飯は食べられそうにないや」 「でも、朝食も、食ってねえのに…」 見上げると、ハルは家を出る前よりも苦しそうな顔をしている。 ハルが泣いたところなんて一度も見たことがないけれど、目が赤くて、涙の痕のようなものが顔に出来ているのがわかった。 「今日はずっと側にいるから…大丈夫だから、落ち着いて」 ハルは俺の体を力強く抱き締める。 けれどその腕は僅かに震えていて、明らかに様子がおかしかった。 今まで何度かハルがこうなることはあったから、また家のことで何かあったのかもしれない。 こんな状態のハルに縋り付くことはできない。今は俺がハルを支えなければ。 「お前も、何かあったんだろ。今は休んでていいから」 「勇也を一人にしておけない」 「でも」 より一層強く抱き締めて、絞り出したような声で呟いた。 「ごめん…俺が勇也に離れて欲しくないだけ」 こんなに弱ったハルには、やはり言い出せない。 大丈夫、今の俺だったらあの男一人くらいどうにでもできる。明日一人で行けばハルに危害を加えられなくて済む。 「勇也は本当に何も無かった?佳代子さんは…」 「佳代子さんは早くに来てさっき帰っていった…お前の父さんも、劇褒めてたって」 父親の話をした瞬間、ハルの腕に込められた力が急に強くなって胸が苦しくなる。 「ごめんね…勇也、ごめん。頭ではわかってるんだ」 やっぱり家で何かあったのかもしれない。今の話はまずかったか。 お互いが落ち着くまで、抱き締めあったままリビングで時間が過ぎるのを待つ。 ハルはいつの間にか眠ってしまったようで、じっとりと汗をかいていた。 その間に先程ポケットへねじ込んだメモ書きを取り出す。くしゃくしゃになったその紙を開くと、ここから少し離れたところの住所が書かれていた。その下に午前6時に来いとの文が添えられている。 ハルにこれを悟られるわけにはいかない。 何事も無かったように、今度こそあの男と関係を断ち切って二度と近寄らないようにすればいい。 そのはずなのに、あの男を目の前にした瞬間足がすくんで声が出なくなった。 植え付けられた記憶が、恐怖が蘇ってくるようで、あの目で見下ろされると逆らうことができなくなってしまう。 眠ってしまったハルを抱き締めて、大丈夫と自分に何度も言い聞かせる。 自分から幸せを奪っていた男に、二度も幸せを壊されてたまるか。 今の俺にあるのはハルだけで、俺を必要としてくれるのもハルだけだ。 それ以外何もいらない。

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