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第132話Motherー遥人ー
幸せを抱きしめて眠った翌朝。
自分のスマートフォンがメールを受信した小さな音に快眠を妨げられた。
少しイラつきながら画面を見ると、それは父からのメールだった。
『前にも伝えたが、叶人が家に帰ってこない。
何か知っていることはないか?
その事で彼女が手につけられない状態にある。
お前も久しぶりに会ってやってくれないか。』
なんだよ、それ。
彼女というのは母のことだろう。
父は知らない。兄だけが母から溺愛されていることを。
俺が顔を見せてやればあの人が落ち着くとでも思っているのだろうか。
それに一言くらい、昨日の感想をくれてもいいのに。
本当は佳代子さんや上杉さんに無理矢理連れてこられただけなんじゃないか。
家へ行くのはいつも億劫だけれど俺は行かなくてはならない。
自分に小笠原の名前がついている以上、それを汚さないように守らなければならない。
父に変な心配をして欲しくない。この前初めて自分の息子だから大切だと言ってくれたから。
例えそれが建前の嘘であっても嬉しかった。
自分でも単純だと思う。
『分かった、すぐに行く』
短く返事をして、隣で眠る勇也を見た。
昨日は一体何があったのだろうか。俺に何か隠しているようにも見える。
疑いすぎかもしれない。恋人なのだから信じてあげなくてはならないのに。
今俺に出来るのは、勇也の側にいることだけだ。
今日家を空けるのも本当は不安だが、佳代子さんが来るから多少は平気だろう。
念のため、佳代子さんに早めに来てもらえるようメールを送る。
俺が他人のためにここまでするなんて、去年までの自分が知ったら驚くだろう。
ましてや相手は男で、あの二中の頭だったのだから。
勇也はみんなが思っているよりもずっと弱い。
心が不安定で、いつ崩れてしまうかわからない。
俺がずっと側にいることで、辛い過去を全て呑み込めてしまえたらどんなにいいか。
勇也には俺のために生きて、俺のことだけを考えてほしい。
いっそこの家に一生閉じ込めてしまえればいいのに。
きっと今の勇也ならそれを受け入れてしまう。
自分でも自覚がある。勇也は俺に少しずつ洗脳されるかのようにのめり込んでいる。
それでいい、ずっと俺に依存していればいい。
勇也が信じていいのは俺だけだ。
俺のことを裏切るなんて絶対に許さない。
勇也に家を空ける旨を伝えると、やっぱり寂しそうな顔をした。
恐らく佳代子さんはすぐに来てくれる。
暗示をかけるように口付けて、家を出た。
この前帰ったばかりのこの大きな家。
入れば家政婦がすぐに俺のスリッパを用意する。
父に言われた通り、母のいる部屋へ訪れた。
仕事で忙しいらしく父本人はこの家にいない。
母の寝室。俺は一度も入ったことがない部屋だ。
まだアメリカに住んでいた頃もそうだった。雷の鳴る夜に母のベッドへ招かれたのは兄だけで、俺はいつも恐怖も孤独も我慢して一人広いベッドで縮こまるしかなかった。
ノックをした後、ドアノブを握る手が汗ばんで滑る。
大丈夫、適当に声をかけたらすぐに帰ればいい。
「母さん…入るよ」
「なんで!!!なんで…叶人…叶人ぉ!どこに行っちゃったの…私の叶人」
思っていたよりもずっと酷い。
母は叫びながらベッドの上でのたうち回っている。
ああ、なんて滑稽なんだろう。
美しかった母の面影は少し薄れ、目は落ち窪んで頬が痩せこけている。
ヒステリックに叫ぶその姿を、ただ呆然と眺めた。
近づいて、嘲笑するように見下す。
ざまあみろ
そう思っていたのに、近くでその母を見た瞬間昔の記憶が無理矢理に思い起こされた。
母様、母様、僕、頑張ったよ
『叶人は本当に良くできた子ね。あなたは叶人の弟なんだからもっと頑張りなさい』
母様、僕、兄さんよりも早く走ったんだよ
『叶人はなんでもできるのね、流石私の子だわ』
ずっと愛してほしかった。
いつだって母が愛情を手向けるのは兄だけだった。
「母さん…大丈__」
「叶人…?叶人なの?!会いたかった!お母さんを置いてどこに行ってたの」
胸を鋭く突き刺されたような痛みが走る。
「母さん、俺…遥人だよ」
「叶人、ああよかった。学校はどうしたの?早くお母さんを安心させて頂戴」
「母さん、遥人だよ」
「あなたは立派なお医者さんになるのよ。お父さんの跡を継ぐの。私と愛する人の間に産まれたんだから」
違う。俺はもう母に愛されることなんて諦めたはずなのに。どうしてこんなにも悲しくて、胸が苦しくなるのだろう。
母は父のことなど愛していない。それなのにどうしてそんな嘘をつくのだろう。
最初から分かっていたのに、どうして俺は少し期待して母に声を掛けてしまったのだろう。
分からない 分からないよ
頬を何かが伝っている。それは止まることなく溢れ出していく。
涙を最後に流したのはいつだったか。
あれ、俺って泣いたことあったっけ
「母さん、俺は遥人だよ。俺を見て、何か言って」
嘘でもいいからただ愛してると言ってほしい。
兄に向けてではなく、俺だけに。
母は急に顔の色を変えて抜け殻のようになった。
力が抜けた口を開き首を傾げる。
「ハルトって…誰のこと?」
耐えられなくなって部屋を飛び出す。
おかしい。涙なんて流したことないから止め方がわからない。
声を殺して、その場に崩れ落ちるようにしてしゃがみこむ。
憎い。自分を愛してくれない母が、興味を示さない父が、愛されていた兄が、愛されない自分が。
改めて自分が愛されていないことを再認識させられてしまった。来なければよかったんだ、こんなところ。
兄がどこに行ったかなんて知る由もない。俺が家を出ていくことには何も口を出さなかったのに。
愛して欲しかった母に、存在さえ忘れられてしまった。
その事実はどれだけ涙を流しても拭うことができない。
愛されることなど、望んではいけなかった。
しばらくして部屋の中から聞こえてくるのは兄を探し求める狂った叫び声。
聞きたくない、もう何も見たくない。
勇也には俺しかいないと思わせたかった。
勇也だけは俺を見てくれる、愛してくれる。
俺の与えた愛を返してくれる。
本当は、俺には勇也しかいなくて、勇也がいないと生きていけないのは自分の方だった。
愛することの尊さと、愛されることの喜びを教えてくれたのは勇也だったから。
今すぐ勇也を抱き締めたい。愛されている実感がほしい。愛されないことが怖くて耐えられない。
自分の母への執着がまだ消えていなかったことが恐ろしい。
お願いだから、俺を愛して
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