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第133話Detach

午前5時。ハルはまだ眠っている。 昨日はあの後、夜になる頃にはもうハルはいつも通りに戻っていた。 それでも時々挙動がおかしかったり、何度も抱き締めては何かを呟いていたが、本人はそれを抑えようと努めていたように見える。 「ごめん…行ってくる」 聞こえないくらいの大きさで囁き、ハルの柔らかな髪の毛を撫でた。 早い時間で助かった。午後に家を出掛けるなんて言ったらハルは着いていくと言って聞かなくなってしまうだろうから。 『ちょっと出かけてくる。すぐに戻るから心配するな』 というメモをリビングのダイニングテーブルの上に置いて、ICカード以外何も持たずに家を出た。 一応、スマートフォンも連絡が入ると面倒なので置いてきてしまった。 始発の電車に揺られて数十分。 指定された住所の辺りへ向かうと、そこは居酒屋やスナックの建ち並ぶ路だった。 まだどこの店も閉まっている時間なのに、本当にここであっているのだろうか。 「ここ、だよな…」 思わず呟いてしまったが、住所通りの店も『close』のプレートがかかっていて中に入れそうにない。困ったなと頭を抱えていると、背後に気配を感じた。 振り返ると同時に、そこにいるであろう相手を睨みつける。 「はは、なんて顔してるんだ…無理も無いか。まあいい、ちゃんと一人で来たんだな。裏口から入ろう」 昨日と様子がまるで違う。 どうやら今は酒を飲んだ後ではないようで、虚ろでどこか狂気を感じる目や酒臭さは無い。 スーツを身にまとっていて、どこから見ても普通のサラリーマンだった。 裏口から中へ入ると、薄暗い店の中には裸の電球がいくつかついていて、カウンターのようなところには店主と思われる男が一人立っていた。 「いつもので、こいつには適当にジュースを」 「…何を」 こいつが一体何をしようとしているのかが理解できない。不思議と過呼吸にはならず気持ちは少しだけ安定していたが、どうすればいいのか分からない。 困惑していると、隣の席に座るよう促される。 沈黙が流れる中、それを破って発された言葉はひどく俺を驚かせた。 「悪かった、本当に」 「え…?」 頭を下げて謝っている。 何が悪かった?何に対して謝った? あまりにもそれが突発的すぎて、返す言葉が見つからない。 「お前の母ちゃんが他の男と関係を持つようになって、それから俺は酒を飲む度にお前にひどい仕打ちをしてきたな」 「今更…そんな」 「ああ、そうだよな。分かってる。あの後捕まって、しばらくずっと考えてた。今年の春に彼女が亡くなったと聞いて、居たたまれなくなった」 目の前にいるのは、本当にかつて父親であったあの男なのか。 有り得ない、こいつが謝るなんて。 本当に捕まってから改心したというのだろうか。 だったら昨日のあれはなんだったのか。 「アルコール依存症だったんだってな…お前も随分辛い思いをしただろう」 「…なんで」 「悪い、まだ混乱してるよな。昨日は手荒な真似をしてすまなかった。ああでもしないと会ってくれない気がしたんだ」 全てわざとだったというのか。 嘘だ、そんなはずはない。 けれど、どこか自分が期待を孕んだ感情を持っていることは否定出来なかった。 「…あれから俺は更生して、必死に働いて、今は普通の生活をしてる。一度もお前と母ちゃんのことを忘れたことは無いよ」 店主が、俺達の前にそれぞれ飲み物の入ったグラスを置いた。 それを一口飲んでから話を続ける。 「これは本当に申し訳ないんだが…お前のことが心配で、色々調べさせてもらった。そしたら今は優秀な公立高校に通ってるって聞いて、なんでか俺が誇らしい気持ちになったよ」 呆然として聞いていると、「まあお前も飲め」と言ってジュースを勧められる。恐る恐る匂いを嗅いでみたが、普通のジュースのようだった。 甘ったるい汁が喉元を通り過ぎていく。 なんとも言えない違和感と居心地の悪さで落ち着かない。この男が言っていることをどうしても信じきれなかった。 「それで、友達と一緒に暮らしてるらしいな。しかも病院の息子さんであんな立派な家に住んでるとは」 「なんでそこまで…」 「依頼した…その、探偵が余計なことまで調べててな。でもそのおかげで踏み切ることも出来た」 「でもあんな事…下手したらまた捕まってたかもしれねえのに」 自分でもなんでこんなことを言ったのかわからない。目の前にいるのは、自分が最も憎んでいる人物だというのに。 「お前にどうしても会いたかったんだ。一目見るだけじゃ止められなくてな。おかしいだろ、けど、それくらいお前が大事だったんだ」 こんな顔をするのを見たのは何年ぶりだろうか。 俺がまだ好きだった頃の、優しかった頃の父親の顔だ。 「ずっと謝りたかった。本当にすまない、申し訳なかった」 いいのか?俺は信じてしまっても。 またやり直せる?家族としてでなくても、蟠りを溶くことができるのだろうか。 「アンタのやったことは…絶対に許さない」 「…ああ、分かってる」 「正直まだ胡散臭いけど、本当に更生したのなら」 記憶の中の父親はいつも俺を苦しめて、幸せを奪っていった。 もし、本当にここでこの不和が解消されるのであれば、もう過呼吸を起こす事もなくなる。 過去に起きてしまったことはもう変えられないけれど。 あとは、俺が信じるか信じないか。 ハルに出会うことで、人と触れ合うことで俺は信じることを諦めなくなった。 そう簡単に人を信用できるものでは無いけれど、俺の人に対する信頼は、前よりも格段に大きいものになってきていた。 何よりも、あの優しかった父親に戻ってきて欲しいと願い続けていたから。 その願いが叶ったのかもしれないとさえ思った。 「もう無理して何度も会おうとは思ってない。最後に父ちゃんってもう一度呼んでくれないか。俺は心からお前を、勇也を愛しているんだ」 愛してるなんて言われてしまったら。 ずっと欲しかった本当の言葉。 昔与えられた空っぽな愛の言葉ではなくて、本心から紡ぎ出される愛。 ハルに愛されて、俺は変わった。 「父、ちゃ… 」 口に出そうとした途端、目の前の景色がぐにゃりと歪んで反転していった。 吐き気と頭痛に見舞われて意識が途絶えていく中、視界には確かに口の端を少しあげて俺を見下ろす父親だったものが見えた。

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