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第138話Bad Birthday

家に帰ってすぐ浴室に閉じこもり、まずは口の中を何度も濯いだ。 汚れが何度濯いでも落ちている気がしなくて繰り返す。 気持ち悪い 「うっ…」 何も食べていなかったから、胃液だけを口から吐き出す。 もう昼食の時間なのに作ることも食べることもできそうにない。 汚れている状態でハルに会いたくなくて、ひたすらにスポンジで体を擦った。 洗っても洗っても俺が汚れてしまった事実は変わらない。一生落ちない汚れとして染みを作ってしまった。 泣いても泣いても涙が枯れることはなく、過呼吸を起こして浴室から出ることが出来なかった。 ハルに気づかれるわけにはいかないから、泣くときは声を押し殺して、どうしてこうなってしまったのか考えてまた涙を流す。 ようやく風呂をあがると、ハルは俺に休むよう言ってきた。心配させたくなかったけれどそれ以上に疲弊してしまっていて、少し休むつもりで寝転がったソファでそのまま眠ってしまった。 目を覚ますとハルが何か喋っているのが聞こえて、電話かなにかしているのかと思ったがどうやら俺に話しかけているようだった。 起きるに起きれなくてハルの言葉に耳を傾ける。 「俺が側にいるからね」 「勇也は一人じゃないよ」 「勇也だけが好きだよ」 それはどれも今自分が一番欲しかった言葉のはずなのに、余計に辛い気持ちになった。 側にいたくてもいることが出来ない。 ハルがいるのにハルが知らないところで汚されている。 ハルだけが好きなのにハル以外にあんなことをさせている。 ハルの隣で胸を張っていようと思えたのに今は申し訳ないばかりで、隣に並ぶ権利も価値も無くなってしまった。 今起きたフリをして起き上がると、側で見守っていたハルと目が合う。 自分の見間違いかもしれないが、その目が以前の冷たい目に戻っていたような気がして思わず怯んでしまう。 あの冷たい目は、父親だったもののそれとも少し似ているような気がした。 ハルをこれ以上心配させてはいけない。 スマートフォンの画面を見ては苦しそうに顔を歪める様子を何度か目にして、さらに強くそう思うようになった。 本当はハルのその胸に飛び込んで泣きじゃくりながら助けを求めたかった。 ハルさえ助かればいいと思うけれど、自分も助かりたいなんて願いは贅沢なのだろうか。 正直この苦しみにずっと耐えるのは無理だ。 いつか近いうちに自分は壊れてしまう。 ハルがいるからそうならずに済んでいるが、ハルがいなくなったらどうやって心を保とうか。 抱きつきたいその背中に触れることも出来ず、汚れを溜め込むばかりだった。 あれから何日か過ぎて、極力違和感を出さないように振舞った。それでもやはり土曜日が近づいてくると心身ともに参ってしまう。 二回目にあの男に会ったときには、椅子で頭を殴られて気を失った。目立った外傷は出来なかったからやはりハルは気づかない。 気づいて欲しくなんて無いはずなのに、それが無性に悲しかった。 三回目を控えていた金曜日のある日、突然ハルが思いつめたように俺を呼び止めた。 「俺、信じてるから。勇也も俺のこと信じて、何かあったら頼ってね」 そう言ってくれたことが嬉しくて、辛くて、泣きたくなった。 「大丈夫」 大丈夫じゃない。辛い、助けて欲しい。 またハルと抱き合って幸せを感じたい、愛を実感したい。 何も言わずにハルは俺を抱き締めた。 気を抜いていたからそれを避けることができなくて、自分が汚れているのが悟られてしまうから離れないといけないのに、あまりにもハルの腕の中は居心地が良くてつい全て委ねてしまいそうになる。 「ハル…どうした」 平然を装ったはずの声は少し上擦る。 ハルは無言のまま首に吸い付いて、僅かな痛みが走った。 「勇也は…俺のだよ」 そう言ったハルは恐ろしいほどに無感情に見えて、言葉が何も出てこなくなってしまう。 ハルの行動がどういう意味を示していたのか分からず、またその日も同じベッドで眠りについた。 ハルは俺の目の前にちゃんといる。 幸せを守るためにやっているのに、幸せはどんどん遠ざかっている気がした。 一生明日が来なければいいと思うけれど、無情にも朝日は昇ってしまう。 「なんだ、お前首になにつけてんだよ」 「あ…や、これは…」 「なんだ、俺だけじゃ飽き足りずにまたオトモダチに抱かれたのか」 何故か嬉しそうなその男は、俺の肢体にキスマークを付け始めた。 やめろ やめろ 俺の体はお前がそんなことを勝手にしていいような体じゃない。 勝手に付け足された汚れた痕が気持ち悪くて、見るたびにこの行為を思い出しては死んでしまいたくなった。 散々犯されて、意識も朦朧としてきたとき、スマートフォンを見ていた男は何か思い出したように俺の方を見た。 「そう言えば、お前今日誕生日か。はは、最悪の誕生日だな。いや、お前みたいな淫乱にはこれがプレゼントで丁度いいか」 冷や汗が背中を伝っていく。 その気持ちの悪い言葉を否定する気持ちとは別に、今日が自分の誕生日であったことを思い出して焦燥に駆られた。 誕生日は、ハルが側にいるだけでいい。 そう言ったのは俺だ。それなのに俺はハルを家に残して、この男に体を好きにさせている。 男が去ったあと、一人部屋に残されてまた涙を流した。 何をやっているんだろう、俺は。 ハルが今どんな気持ちなのか考えることすら辛かった。 普通にしていないとと意識していても、誰かに触れられることが怖くて拒んでしまう。 その度にハルがあんな顔をするのが耐えられなかった。 心では側にいたいと思っているのに、実際は離れていくばかりだ。 それでもハルを守らないと、ハルがいなかったら生きる意味を無くしてしまう。 早く家に帰らないと ハルに会いたいのに、会いたくない。 家に帰り玄関の扉を開くと、すぐそこにハルが座り込んでいた。 「おかえり、勇也」 「どうして…そんなところに」 「誕生日、おめでとう」 ハルは短くそれだけ言うと、俺の体を強く抱き締めた。 我慢していたのに、気づかれてはいけないと分かっていたのに、涙が一筋頬を伝ったかと思うととめどなく溢れ出した。 「どうして泣くの」 「ごめ…ハル…ごめん、大丈夫だから」 「何か俺に隠してない?」 震えが止まらない。 気づかれてしまった? もう捨てられてしまうのか。 怖い、何もかもが怖い。 ハルの胸を押し退けて、浴室へ逃げ込んだ。 早く汚れを流さないと、ハルに抱き締めてもらう資格なんてない。 服を脱ぐと、自分の身体中に痣やキスマークが出来ているのがわかる。 ハルがつけたものじゃない。 汚い 汚い 落とさないと キスマークのついた首元を爪で引っ掻いて消そうとするが、血が滲んでいくだけで痕は消えない。 何度引っ掻いても消えなくて、血が首を伝う。 「うう…あ…嫌だ…ハル…」 爪が肉に食込んで痛いはずなのにそれも気にならない。何をしても自分が汚れてしまった事実を消せなくて、我を忘れて泣き叫んだ。 「あぁぁぁ!!嫌だ…いやだ!」 浴室のドアを強く叩く音が聞こえて体がビクリと跳ねる。 恐怖に震えながら、目についたカミソリを手に取って首筋にあてがう。 「勇也、勇也!入るよ、いいね?」 ハルは入ってすぐに俺の腕を押さえつけてカミソリを奪った。 それを奪い返すわけでもなく、もう何が怖いのかも分からずに蹲るしかなかった。 「何してるんだよ!死にたいのか!!」 凄い剣幕でそう言われて、また違う意味の涙がボロボロと零れる。 「ごめん…ごめんなさい…だい…じょうぶ」 「…なに、そのアザ」 血相を変えたハルは俺の体に出来た痣に触れようとしたが、触られるのが怖くてまた逃げてしまった。 「…誰にやられた。言え」 「違う…違う!俺は…ごめん、ハル…」 「なんで謝るんだよ」 怒っているのにハルの目は悲しみに色づいていた。 何を言えばいいか分からなくてただ否定することしか出来ずにいると、最悪のタイミングで俺のスマートフォンが通知音を鳴らした。 それは床に画面が伏せられた状態で落ちていて中身はわからないが、もしあの男からだったらと思うと気が気でなくて咄嗟にスマートフォンへ手を伸ばした。 俺が手にするよりも先に、ハルがそれを拾い上げる。 「…来週もよろしくって、何のこと?」 更に通知音が重なると、ハルは目を見開いて静止し、手からスマートフォンが滑り落ちて運悪く画面にヒビが入ってしまった。

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