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第140話Bad Birthday③ー遥人ー

「誕生日、おめでとう」 また早朝から家を空けて、昼になってようやく帰ってきた勇也を抱きしめる。 いつもよりずっと早く起きてみたけれど、勇也は既に隣にいなかった。 その不安を掻き消すように、勇也をきつく抱きしめる。 勇也は涙を流していて、何か隠しているのかと聞いたら逃げるようにまた浴室へこもってしまった。 まただ。何も聞けなかった。 やはり無理矢理にでも聞くべきだろうか。 自分の心があまりにも弱りすぎていて、本当のことを聞くのも怖かった。 明日。明日になったらまた聞けばいい。土曜日が過ぎれば少しは勇也も落ち着くはずだ。 勇也が浴室から出てくるまで待っていようと階段に足をかけると、浴室の方から勇也の叫び声が聞こえてくる。 ドアを叩いたが返事はない。嫌だ嫌だと泣き叫ぶ声がドアの向こうから響いていた。 「勇也、勇也!入るよ、いいね?」 中へ入ると、何故か首元が引っ掻き傷でいっぱいになった勇也がいた。そしてカミソリをその血まみれの首元にあてがっている。 咄嗟にそのカミソリを取り上げた。まだ刃物で首を傷つけてはいないようで安心したが、その行為を見て頭に血が上ってしまう。 「何してるんだよ!死にたいのか!!」 勇也は怯えて体を震わせている。 その目は、俺ではなく何か違うものを捉えて怯えていたようにも見えた。 その勇也の体が痣だらけなことに気がつき、血の気が引いていく。 一体いつ、誰にそんなことをされたのか。 気がつくのが遅かった。 俺のせいだ。 明日聞こうと先延ばしにしていたら、いつの間にか取り返しのつかない状態にまできてしまっていた。 静かな空間に、電子的な通知音が響く。 スマートフォンが受信したメールは、気づきたくなかった事実を嫌でも俺に突きつけてきた。 ご丁寧に写真まで添えて、誰も否定できはしない。 何を聞いても、勇也は俯くだけで答えなかった。 「言えないの?勇也が望んでやったことなの?」 分かってる、勇也はそんな事しない 「信じてたのは、俺だけだったの?」 そんなことない、そう思いたい 「そうやって俺を騙して楽しかった?」 なにか理由があるはずだ、勇也を信じたい 「最初から誰にも愛されてなかったんだ」 分からない、いつから崩れてしまった? 勇也を信じたい。きっと何か裏があるんだ。 もしそうでなかったら? 勇也が俺以外を選んだというのか。 そんなはずないのに、自信が持てない。 自分は、今まで散々勇也に酷いことをしてきた。 勇也が自分を愛してくれるだなんて思っていなかったし、ただ自分の欲求を満たしてくれればそれで良かった。 良かったはずなのに、あんな顔をして笑うことを知ってしまったら。 自分の手で幸せにしたいと思うようになって、少しずつ自分も変わっていける気がした。 勇也はそうではなかったのかもしれない。 心の中ではずっと俺のことを恨んでいたのかもしれない。 けれど文化祭の日に言ってくれた言葉を嘘だとは思いたくなかった。 本気で愛されていると勘違いして自惚れていたのだろうか。 よく考えてみたら、生まれた時から誰からも愛されていなかったではないか。 本当に愛しているかどうかなんて、誰もわからない。 それでも自分が勇也を愛しているという意識はたしかにここにあった。 自分には勇也しかいなかった、愛してくれるのは勇也だけだった。 それなのに、守ることが出来なかった俺は一体なんなのだろう。 もっと早く異変に気づいていたら、何か変わっていたのかもしれない。 今俺が勇也を抱きしめたら、何か変わるかもしれない。 きっと、勇也を苦しめているのは俺自身だ。 俺が勇也を好きになってしまったから、勇也は今こんなに辛そうな顔をしているんだ。 どうして何も答えてくれないのだろう。 もしかして本当に今までのは全て嘘だった? もう何を信じていいのかもわからない。 でもきっと、俺が勇也の側にいることは勇也を苦しめることになる。 俺が今こんなに苦しくて、辛くて、泣いてしまうのも、勇也のことが好きだからだ。 どうして好きになんてなってしまったのだろう。 男なんて好きじゃなかったのに。 誰も自分のことなんて愛してくれなかったのに。 勇也だけはどうしても信じていたかった。 全てが壊れてしまった。 もう、ここにはいられない。 勇也を一人にしたくはないけれど、一緒にいるのはお互いにとって苦痛だ。 この先どうするかなんて考えていない。 勇也のいない生活なんて考えるはずがなかった。 わざとゆっくりと家を出る準備をしたけれど、勇也は浴室で蹲ったまま動かない。 追いかけてくることを期待している自分が情けない。こんなに女々しかったか、自分は。 玄関を出て、服が汚れるのも気にせず蹲って泣いた。 自分にはなんの力もなかった。 きっと無理にでも今の勇也とちゃんと話さなければならないのだろうけど、自分がこれ以上傷つくのが嫌でなにもできない。 結局俺は自分がいちばん可愛かったんだ。 愛されないことに拗ねているだけだ。 勇也が俺のことを忘れたら、楽になれるだろうか。 そんなはずないのは分かっている。人から忘れられるということは、何よりも辛いと知っているから。 俺は決して勇也を忘れたりはしないし、人生の中で唯一愛し合えたのは勇也だけだと信じている。 けれど、もう誰も愛せやしない。 充分夢は見させてもらったではないか。 勇也はもう、きっと俺のことを愛してくれない。 愛されるために生まれてきたような人間でありたかった。 自分は愛に飢えたせいで狡くて、汚い。 この後も行く宛なんてなかった。実家に帰ったら自分の心はきっと潰れてしまうから。 少しの間だけ世話になろうと、上杉さんの家へ向かった。 この心の内をすべて話してしまえれば気は楽になるのかもしれないけれど、俺の気持ちなんて誰もわかりっこない。 それに上杉さんはあくまでも俺でなく〝小笠原〟の、言ってしまえば父の味方だ。 心が廃れてしまった今、上杉さんに何も言えない。 最後にもう一度触れたかった。 震える体を抱きしめて、キスをしたかった。 それすら今の自分には許されていない気がして、何もしてあげることができなかった。 勇也は俺に全てをくれた。 俺は勇也に何をあげられただろう。 勇也は俺の全てだった。 俺は勇也にとっての何だったのだろう。 考えれば考えるほど何も分からなくて、今世界には自分たった一人しかいないのかもしれないと思った。

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