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第141話Melancholyー遥人ー
「お邪魔します」
そう言って入ったのは上杉さんの自宅。
今まで何度か来たことはあるが、うちの実家とは対照的な広い日本家屋だ。
庭は全て素晴らしい日本庭園で、そこを踏み荒らす度によく叱られた。
裏口から通っていけば、鍵なんてなくても入ることが出来る。
裏口から庭に出て縁側へ上がると、大きな影と出くわす。今は誰にも会いたくなかったから、無視しようと思ったが相手から先に話しかけられてしまった。
「小笠原…貴様、泣いているのか?」
「うわ、なんでいんの」
よりによって謙太に会ってしまった。
しかもどうしてここに居るのかでなく、泣いているのかと聞かれてしまうなんて。
本当にこいつは空気が読めないな。
「…ここは俺の家だ」
「そうだったね…しばらくここにいさせて、すぐ出ていくから」
「ちょっと待て、双木はどうした」
どこまでも地雷を踏むのが得意なようだ。
謙太を睨みつけて一瞥してからいつも自分が使わせてもらっていた部屋に閉じこもる。
分かってる、自分が情けないことは。
しばらく一人になりたかったのに、無遠慮なノックが部屋にこだまする。
「…何かあったのだろう、入るぞ」
「なんで和室って鍵ないの、最悪」
「空き部屋には取り付けていないだけだ」
謙太は俺が不貞寝していた布団の傍らに座り込む。
鬱陶しいし厚かましい。
人の気も知らないで。
「俺は、周りの人間とは違っているから、気に触れるようなことを言ってしまうかもしれない」
「もう充分気に触れてるけど?」
謙太自身は悪くないんだ、何も知らないのは当たり前なのだから。
それでも今の状態で人と話せる気がしない。今までこういう時はずっと逃げてきたんだ。
「お前の涙の理由は双木にあるのか?」
「人の心ん中勝手に土足で入ってくるのやめてくれる?」
「む、家の中では靴は脱いでいるぞ」
「そういうことじゃなくて…あーもうなんで君ってそんなにうざいの」
調子を狂わされる。今はもうこいつの天然ボケに突っ込んでいられるテンションじゃないのに。
「すまない。お前が泣くなんて珍しいと思ってな」
「なにそれ、そこまで関わってないんだからわからないでしょ」
「双木が言っていた、お前が泣いたところは一度も見たことがないと」
またその名前。
切り捨てられ、自分も切り捨ててしまった最愛の人。
「…今、その名前出さないで」
「喧嘩でもしたのか」
「もう、会えないんだ」
俺の言葉に上杉は目を見開いて驚く。
今のは確かに言い方が紛らわしかったかもしれない。
「やはり、仲違いをしたのだな」
「なんで断定的なの…まぁ、間違ってはないけど」
こいつは、絶妙に的を得ている。
俺の言葉から真意を読み取ったというのか、いや、恐らく偶然だろう。
「仲直りできないのか?」
「もう一生直せないくらい、ぐっちゃぐちゃに壊しちゃったからね」
「どちらが原因だ」
「分からない…けど悪いのは全部俺」
最近一応友達になってやったばかりなのに、どうしてこいつはここまで深入りするんだろう。
俺も、どうしてこんなにペラペラと話してしまっているのか。
「何があったのか、俺が聞いてもいいものだろうか」
「なんで君に話さなきゃいけないの」
布団に潜って早く帰れと念じるが、謙太に離れる兆しはない。
「…今から俺が話すのは独り言で、たまたまそこに謙太くんがいただけだから」
どうして話す気になったのだろう。
彼は俺たち二人に関係ないのに。
いや、関係ないからこそ話せてしまうのかもしれない。
「勇也が他の男と寝てた」
自分でそれを言葉に出して言ってしまうのは辛かった。
さっきあったことが現実なのだと認めざるを得ない。
「嘘だと思いたいよ、俺だって。けど相手から写真つきのメールまで送られてきてさ」
「でも、あいつは…」
「分かってるよ。勇也がそんなことするような人間じゃないことくらい…俺が一番分かってあげなきゃいけないんだ」
理由もなく勇也がそんなことをするはずはない。
分かってる。分かってるはずなのに。
「俺って最低のクズだからさ、勇也が俺のこと恨んでても仕方ないよね。考えれば考えるほど悪い方にしかいかなくて」
「自覚があったんだな」
「…俺に復讐したくてあんなことをしたんじゃないかとか、そんなはずないのにね…無いといいなぁ」
母の一件から泣き方を覚えてしまったからか、涙は簡単に出てきてしまう。
俺は泣いていい立場なんかじゃないのに。
「勇也の体、痣だらけだったんだ。怒りとか悲しみとかそんなんより、罪悪感の方が強かった」
「お前がやったのか?」
「違うよ。けど…実質そうなのかもね。一緒にいたのに気づけなかった」
「真実を確かめて、お前がどうにかしてやるべきなんじゃないのか。辛いのはきっと双木のほうも同じだろう」
言われなくたってそんなこと理解してる。
勇也の辛さは勇也にしか分からないし、俺の辛さも俺にしか分からない。
それよりなにより、勇也はずっと黙ってたんだ。
「出来るならそうしてたよ…けど勇也、本当に何も答えてくれないんだ。俺に頼れる案件ならすぐに頼ってたはずなのに。ずっと隠して、肯定も否定もしないで黙ってたんだよ」
「しかしそれにもきっと何か」
「分かってんだよ!…けど、俺に黙って他の男に抱かれる理由ってなんなの?」
「それは…」
ほら、誰も答えられない。
分からない。どうして勇也がそこまで頑なに話そうとしないのか。
勇也よりも、気づけなかった自分が、そんなことをさせてしまった自分が嫌いだ。
「俺がもっと愛してたら、こんなことにはならなかったのかな。愛が足りなかったのかな」
「そんなことは…ないと思うが」
「俺のことを避けてる間にも、あのメールの相手には体を許してたんだよ」
謙太はとうとう黙ってしまう。
こんな他人の話、聞いたって何にもならないし気まずいだけだ。
「ごめんね、こんな話…独り言だから忘れて」
「お前、謝ることができたんだな。俺のことは気にしなくていい。話を聞かせろと言ったのはこちらなのに、何も返せなくて悪いな」
誰も悪くないよ。悪いのは全部俺。
愛されなかった俺が悪いから。
惨めだ。幸せだったのもつかの間、こんな簡単に手放してしまうなんて。
気まずい雰囲気に包まれてしんとした部屋に、ノックの音が響いた。
「遥人…いるのか?」
それは上杉さんの声で、その声を聞いた謙太はすっと立ち上がる。
「すまない、俺は失礼する。また何かあったら言ってほしい」
謙太は相変わらず父親と不和のようだった。
謙太と入れ違いに中へ上杉さんが入ってくる。
「お前…実家からの連絡を何も聞いてないのか」
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