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第143話Dream

ハルがこちらへやってくるのが見える。 俺は蹲ったまま動けなかった。 「ごめん ごめんね」 そんな声が聞こえた気がする。 ハルは何度もそれを口にした。 叫ばなくたって、ちゃんと声は届いてるのに。 「ちゃんと話を聞くよ だから本当のことを話して」 なんて自分にとって都合のいい夢だろう。 顔を上げると、ハルはまだそこにいた。 いつまでも消えようとしない。 何故か笑っている。暖かいあの目で。 「好きだよ ずっと好きだよ」 本当にそうだったらいいのに。 「俺も」 そう短く言葉を返した。 気づけば自分はソファの上で寝ていた。 Tシャツを着ていたし、もしかしたらあれはすべて夢だったのではないかと思ったが、テーブルに置かれたスマートフォンのヒビがそうでないことを物語っていた。 もしかして、ハルが帰ってきたのか? そう思って体を起こすと、キッチンの方からいい匂いが漂ってきた。 瞬時にそれがハルじゃないと判断できてしまったので軽く落胆する。 帰ってきてくれることを望んでいた自分が惨めだった。 「あら、双木さん起きたの?あなた最近あまり食べてないでしょ。私でも運べちゃったんだから」 キッチンには、いつも通りの笑顔を浮かべた佳代子さんが立っていた。 時計を見るともう12時。 首元の血は軽く拭かれて綺麗にされている。 この様子を見て何も思わないはずが無かったが、いきなり深く詮索するようなことを佳代子さんはしなかった。 ここまで運んでくれたのだろうけど、いくら何も食べてないからといって男一人運ぶのは大変だったはずだ。 「ごめ…なさ…俺」 喉が痛い。昨日は自分でも制御出来ないほど泣き叫んでしまった。 思い出す度胸が苦しくなる。 「いいのよ。食べられるだけ、ご飯食べてちょうだい」 言われるがまま食卓について、箸を手に取る。 口に運んで食べてみるけれど、やはり食欲は湧かなかった。 けれど、やっぱり佳代子さんのつくるご飯は温かくて美味しい。 その心遣いを無駄にしたくなくて、無理に口の中へ詰め込むと、また涙が溢れてくる。 「無理してまで食べなくていいのよ。ゆっくりでいいの」 これ以上食べられないと悟り、罪悪感を感じつつも箸を置く。 「何があったのか、聞かないんですか」 「聞いて欲しいの?」 キョトンとしてそう返す佳代子さんに、無言のまま首を横に振る。 「俺、もうこの家にはいられないので。この先佳代子さんがどうすればいいかは、あいつに聞いてください」 「分かったわ。私は来週も来るつもりでいたんだけどね…一つだけ、どうしても聞きたいことがあるの。いい?」 真剣な顔をしてそう言うので、気迫にやられて思わず頷いた。 「その傷、遥人さんがやったの?」 誰がやったのかではなく、ハルがやったかどうかだけを確認するあたり気を使っているのかもしれない。 「あいつはこんなことしません…首の傷は全部俺がやりました」 「そう、答えてくれてありがとう」 佳代子さんは食器を片付け、一息ついたところでまた俺に向き合った。 「あなた達、もっと周りを頼っていいのよ。まだ高校生なんだもの、自分達だけで悩まないで」 頼れる大人なんて、いなかった。 大人はみんな嘘つきだ。 「大丈夫です、本当に。今日はもう帰ってください」 「けど…」 「帰ってください!…ごめんなさい、お願いします」 佳代子さんは何も悪くないのに怒鳴ってしまう。 佳代子さん自身も何か察しているようで、特にそれ以上何も言わずに去っていった。 冷蔵庫の中には佳代子さんの作り置きした料理が残されていて、やっぱりあの人には適わないと思った。 俺は、いつまでここに居座る気だろう。 ここには俺とハルが二人で過ごした時間が詰まっている。 それを手放したくないと思うのはきっと我儘だ。 淡い期待を抱いていた。 ここで待っていたら、何もなかったようにその玄関の扉を開けてただいまと言ってくれるのではないかと。 好きだ、ハルが好きだ。 こんな気持ちもう持ってはいけないのに、消えてくれない。 ハルを守っている間は、この気持ちも少しは許される気がした。 月曜日になったけれど、学校には行っていない。 そういえばもうすぐ体育祭の練習も始まるらしい。 でも今の俺にはもう関係なかった。 学校に行く意味なんてなくなってしまったから。 元々クラスに馴染めるわけなんてなかったし、別にどうでもいい。 ハルと一緒じゃないなら意味が無い。 火曜日も、水曜日も、木曜日も、金曜日も学校に行かなかった。 ハルは家には帰ってこない。 ハルの帰らない家に、俺がいる資格はないのに。 とりあえず今日はまたあそこへ行かなければならない。 結局あれ以降今週はなんのメールも無かったが、いつもと同じく6時にあの場所へ行けばいいはずだ。 乗るといつも決まって具合の悪くなってしまう早朝の始発電車。 ガタンゴトンと心を揺さぶる。 酔い止めを飲んでもこの気持ち悪さは無くならなかった。 いつもの場所へ向かい、店の前で足を止めるが何かおかしい。 扉にはプレートさえかかっておらず、その扉自体にも傷が多くつけられている。 扉を押して中へ入ると、そこには何も無かった。 本当に、何も無かった。 二階へと上がってみるが、どこの部屋も空だ。 ベッドもハンガーラックも何もかもが撤去されている。 一階の店の方は何か荒らされた跡が残っていた。 一体なぜ、いつこうなったのだろう。 画面の割れたスマートフォンにメールの通知は来ておらず、ただただ呆然とする。 終わった?全て もうここへ来なくてもいいのか? フラフラと彷徨うように帰路について家へ戻る。 結局しばらく待ってもあの男が現れることは無かった。 もうあんな苦しい思いをしなくて済むんだ。 じゃあ俺はなんのために今までずっと隠してきたのだろう。 これから、なんのために生きていけばいいのだろう。 もう自分の手でハルを守ることも無くなってしまった。 今の俺の生きる意味はなんだ? ハルに見放されて、自分を犠牲にする必要もなくなって、ハルの帰らない家で一体何を待つ? もしかしたら、もう本当に生きる意味などないのかもしれない。 吸い込まれるように浴室へ向かう。 バスタブにはまだこの前張ったお湯が冷めた状態で残っている。 なんだか少し嫌な匂いはするけれど、そんなことも今は関係ない。 手に持ったのはカミソリ。 愛する人のためなら何も惜しくなかった。 そのためなら命だって投げ捨てられると思っていた。 大丈夫、大丈夫。怖くない。 俺の今が全て無くなっても きっと心はハルの側にいる ずっと、ずっと。 お休み、ハル 手首を躊躇なく縦に切りつけ、バスタブの水の中へつける。 みるみるうちに赤く染まり、それはまるで赤い大きな花が一輪咲いたかのようであった。 少しずつ遠ざかる意識。 その意識の中でも、ハルの顔が最後まで頭に浮かんでいた。 幻聴なのか自分の望んだことなのか、玄関の扉が開くような音がどこかで聞こえた気がする。 ハル、そこにいるのか? ごめん、最後まで何も言えなくて。 ただ俺からは一度も言えなかったことくらい最後に言わせてほしい。 「ハル…愛してる」 このまま永遠に続く、幸せな夢よ

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