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第164話Be afraid②

「んうっ…まだ、制服…」 「キスだけだから、だからあともう少し」 押し倒される形になって、頭の中をあの男の映像が過ぎっていく。目をぎゅっと瞑って消し去ろうとするが、一度思い出すと消えてくれずに脳裏に焼き付いたままだ。 手が震え、目も開けない。動けずに固まっていると、体が起こされてまたハルに抱き寄せられた。 「ごめんね、怖かったよね」 「大…丈夫だから」 「勇也がそう言って本当に大丈夫だったことなんてほとんどなかった気がするけど」 ハルの匂いがする。優しくて暖かい。今目の前にいるのはハルだけで、あの男ではないのに。 ハルだけだったのにどうして。 「勇也が怖がるようなことはもうしないから。だから俺を見て」 「…分かってんだ、お前とあいつは違うって…けど」 「無理しなくていいんだよ。嫌だったよね」 違う、嫌なんかじゃない。怖くなってしまうけれど、その怖さを消してくれるのはハルしかいなかった。 「違う…ちが…っあ…」 息が詰まる。ハルのせいじゃない。だからそんなに苦しそうな顔をしなくていいのに。 「ごめん、こんなことして」 「ちが…はっ…」 呼吸を整えないといけないのに、混乱するばかりでどうすればいいか分からない。ハルはいつものように背中をさすってくれる。 けれどこの苦しさはそれでは消えない。ハルへの罪悪感で苦しかった。優しくされれば優しくされるほどその罪悪感は色を濃くしていく。 なかなか呼吸が落ち着かず、ハルの方も焦りが見えてきた。何とかしなければいけないのに、自分で調節ができない。 過呼吸になったときに一度だけされたあることを思い出して、再びハルの頬を両手で掴み唇を重ねる。 乱れた呼吸が、お互いの吐息が交差していった。 「はあっ…あ…」 「ごめんね、本当にごめん」 「違う…お前のせいじゃない」 離れていこうとするハルの体を引き止めて抱きしめる。もうハルが離れていくのは嫌だった。 ハルに触れられるのが怖いわけじゃない。まるで呪いにでもかかってしまったかのように、重なった影が邪魔をする。 「もう謝るのはやめようって言ったの、お前だろ」 あの時、ただ謝ることしか出来なかった俺にハルが言ってくれた。 〝 謝らなくていい〟その言葉はあの時の自分にとって救いだったような気がする。 「けど…勇也に嫌な思いまでして我慢してほしくない」 「嫌じゃない。お前に触られて嫌だと思ったことなんてない…って言ったら嘘になるけど」 「…うん、まあそうだよね」 「少なくとも今はそんなこと思わない。あの男のことを思い出したのもお前のせいじゃないし、我慢してるのは…お前の方だろ」 依存性を疑うほどに体を重ねることを求めてくるハルが、俺のことを気遣って触れすぎないようにと自分を押さえつけていたということが今になってよく分かってきた。 「我慢…たしかにそうなのかもしれないね。前までは勇也にもっと深く触れたい一心だったけど、今は違うよ」 手が伸びてきて頭を撫でる。最近はこうして頭を撫でられることが多い。 「こうやって頭撫でたり、抱きしめたり…自己満足のためだけじゃなくて、勇也がそれで安心できたら嬉しいって思うようになった」 確かに、ハルの俺に対する触れ方は少しずつ変わってきている気がする。優しくて暖かい、体だけじゃない、心に触れていてくれた。 「抱きしめるだけでも充分満たされてるって実感できるようになった。もちろんもっと触れたいと思うこともあるけど…勇也が大丈夫になるまで、ちゃんと待ってられるよ」 「お前は…本当に、それでいいのか」 「いいよ。好きだから…けど、だからこそ他の人が勇也に触るのは嫌だなあ」 少し笑って、またハルの腕に包まれた。 「別に、元々そんな人と関わってねえし…」 「いや、いいんだよちょっとくらい仲良くする分には。本当にちょっとだけね」 「…よく分かんねえけど分かった。そろそろ飯作る準備するから立っていいか」 しばらくの間廊下の床に座り込んだままだった。ハルは自分も手伝うと言って俺を抱えあげ、そのままキッチンに向かう。 「おい、ふざけんな下ろせ!」 「やっぱり前より2.7キロくらい軽いね、ダメだよちゃんと食べなきゃ」 「正確な数値で言うなよ怖えから…」 キッチンでまた真田から頼まれたことについて話し合い、金曜日は体育祭があるので土曜日にハルの家へ、日曜は家で佳代子さんを待って話を聞くことになった。 「休日は勇也と買い物行く予定だったのにな」 「仕方ないだろ、他に話せる日もねえんだから…ナス輪切りにしてボウルの中」 「味噌汁にナス入れるの?あれ好きじゃないのに…食べるけどさあ」 最近は料理の中に野菜を入れても文句を言わず食べてくれるようになった。前まではミキサーで粉々にしてから混ぜてもなかなか手をつけなかったから、大分成長している。 「俺の分そんなにいらねえから…全部食えねえって」 「育ち盛りなんだからちゃんと食べなきゃダメだよ。大きくなってね〜」 「…馬鹿にしてんのか」 そんな話をしながら夕食をとって、セミダブルのベッドで二人横になる。 当たり前のように、今度こそこんな日常が続けばいいと思った。

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