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第186話Miss Flower

「佳代子さん、また明日の昼に来るはずだから、ドア開けた瞬間にこれ渡そうか。驚くかな」 「ああ、喜んでくれるんじゃないか」 休日の夜ともなるとお互い家の中ではずっとだらけている。夕食を終えて風呂に入るともう特にすることもなく、ハルのベッドに寝転がって今日買ったレシピ本を眺めていた。 ハルはそんな俺の腰に腕を巻き付けて暇そうに足をパタパタさせている。 「勇也、まだ寝ない?」 「お前、今日は何もすることねえの?」 「うん。今日はゆっくりしようかな」 「じゃあ本置いてくるから」 ベッドから立ち上がり、腰に巻きついていたハルを引き剥がして自室へ向かう。ハルの部屋を出る前、机の上に分厚い本が何冊か置かれているのが見えた。 それの背表紙までは見えなかったけれど、書斎で見た医学書に似ている気がする。そうだったとしたら、ハルはまた医者を志し始めたのか。夜中までしていた作業というのも、本当は勉強のことだったのかもしれない。 「電気消すね、寒くない?最近急に冷えてきたから」 「大丈夫」 「本当に?」 「…少し寒い」 暖房でもつけるのかと思ったが、そうはせずにハルの腕の中に収められた。 「おやすみ」 「おやすみじゃねえよ近い」 「暖かいでしょ」 得意げに笑って、俺の体に長い脚を絡ませる。 「やめろって、抱き枕じゃねえんだぞ」 「なんでよ。勇也が言ったんじゃん」 何の話だと返そうとして、ショッピングモールで自分が言ったことを思い出す。それによって自分の顔はまた徐々に熱を持っていった。 「あれはそういう意味じゃ…」 「嫌なの?」 「別に…嫌ではない、けど」 そう言った途端に、ハルは俺の体を本当の抱き枕みたいに抱きしめて寝息をたてはじめる。 何を言っても起きないから、仕方なくハルの胸元に顔を埋めて背中へ腕を回した。同じくらいの力で抱きしめ返す。ハルが寂しくならないように。一人じゃないと言い聞かせるために。 結局、三本の薔薇の花言葉はなんだったのだろう。ハルに聞いても恥ずかしがって教えてくれない。ハルの父に聞いたら分かるだろうか。それとも、インターネットで調べれば出てくるのだろうか。ずっと考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。 ………………… 「勇也、おはよ」 まだぼんやりする意識の中で、ハルの声が聞こえてくる。いつもは自分が先に起きて朝食を作っていたのに、今日は寝すぎてしまったのだろうか。 「早いな、今日は…」 「佳代子さんから連絡あってね、少し早く来るって」 目元を擦って時計を見るとまだ8時だ。やはりハルにしては早起きだった。 また、ほのかに甘い香りが漂っている。どうやらそれは一階のほうから来ているようだ。 「もう佳代子さん来たのか?早いな」 「いや、あと1時間くらいかかるみたいだよ」 「じゃあ、この匂いは…?」 「早起きしてフレンチトースト作ったの。偉いでしょ?」 屈託のない笑顔を浮かべ、撫でろと言わんばかりに俺の前にしゃがみこむ。 仕方なく思いつつも、ハルがこんな態度をとるのは自分の前でだけなのだと思うと堪らなくなってその頭を撫でくりまわした。 「ほら、起きよう」 「ん…」 別に夜更かしをした訳では無いけれど、なんだかまだ眠たい。いつも寝ぼけたハルがしていたみたいに掛け布団に抱きついて離したくなかった。 「珍しいね、勇也が起きないの。でも今日は佳代子さん来るし、早く起きよう?」 「ん…も、少し」 「可愛いけどダメ。せっかく作ったフレンチトースト冷めちゃうよ」 起きたいのは山々なのだが、ベッドに貼り付けられてしまったかのように体が動かない。いつものハルはこんな気持ちなのかと思いながら柔らかい枕に顔を埋めると、次第に瞼が重くなってきた。 「起きてってば!もう、起きないとキスするよ。いいの?」 寝起きで頭の中がふわふわして、夢見心地のまま仰向けになり薄く目を開く。 「ん…早くしろよ」 「え?…いや、起きてって」 もう一度目を瞑って、寝転がったまま顔をハルの方に向けた。 「するんだろ…キス」 今していたのはなんの話だったか。自分は今一体何を言ってしまったのか。 頭がはっきりしてくるのと同時くらいにハルがベッドにのし上がってきて、少し乾いた唇同士が重なった。 「待っ…ぁ、冗談、だって…!」 止める言葉をかけるために開いた口の中へ舌が入り込んで、その言葉諸共吸い取っていく。朝から濃厚なリップ音を部屋に響かせながら、逃げようとする上半身を抑え込まれて息ができなくなった。 糸を引きながら唇が離れていく。フレンチトーストの味見でもしたのか、キスの後味はほんのりと甘かった。 「起きる気になった?」 「ん…おきる、から、も…やめ」 「あんまり煽っちゃダメだよ、歯止めが効かないから。さ、ご飯食べよう」 ハルの作ったフレンチトーストは俺にとってかなりきつめの甘さだったけれど、ハルは美味しそうに食べているから分量を間違えた訳では無いのだろう。 ブラックコーヒーと交互に口にしながら完食し、美味しかったと言ってまた頭を撫でてやった。 「佳代子さんは?」 「もうすぐ来ると思う。洗い物したら丁度いいくらいかな…着替えておいで」 言った通り、ハルが洗い物をして俺が着替え終えた頃にインターホンの音が聞こえてきた。 二人で花を持って玄関前に立ち、そっと扉を開く。 「こんにちは。なんだか最近肌寒いわねぇ」 「佳代子さん、いつもありがとう」 「俺達から…です」 「あらあら、どうしたの?ありがとうね〜二人とも。やだもう嬉しいじゃないびっくりしたわ」 変わりなく柔らかに微笑む佳代子さんに花を手渡すと、佳代子さんの後ろにはもう一人の人影があるということに気づいた。 その人は佳代子さんに渡した花を見て、ふっと表情を緩ませる。 「カンパニュラ…か。素敵な花だね」 その顔を見るやいなや、ハルの表情は驚きとも呆れとも取れるような、なんとも間の抜けたものになった。 「父さん…なんでいるの?」 「ごめんなさいね、私が呼んだのよ。遥人さんに渡したいものがあるっていうから…」 「久しぶり、遥人に双木くん。急に来てしまってすまないね」 多忙だと聞いていたけれど、それでもわざわざハルに会いに来るのだからこの人は本当にハルのことが好きなのだろう。照れくさそうに笑うその表情は、ハルのものと少し似ていた。

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