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第189話Miss Flower④

一体いつの間に日記なんて書いていたのだろう。ノート自体はそう古くない。アルコール依存症で精神科に一度かかっていたから、その時に勧められて書き始めたものだろうか。1ページ目はグチャグチャにボールペンで塗りつぶされていて、何が書いてあるのかもわからない。 ノートの背表紙をよく見てみると、病院名が記載されたシールが貼ってある。そこに見えたのは小笠原の文字だった。だから最初に会った時からハルは母親の死を知っていたのだろう。今更あまり驚きもしない。 あの人が亡くなったのは、精神科にかかってから10日も経たない頃だった。結局病院に行ったのは一度だけで、通いもせずひたすら酒を飲んだくれていたのをよく知っている。 酒が蝕んでいたのはなにもあの人の身体だけではない。心を蝕まれ、自ら命を経ったのだ。死に至ったきっかけはアルコール依存だったのか、それとも俺と暮らすことがストレスだったからなのか、彼女の人生そのものを恨んでいたからなのか。俺には分からない。 次のページを捲る。すぐ目に入ったのは汚い字で殴り書きされた自分の名前だった。自分のことについて書かれていると思うと怖くて直視できない。背中に汗が滲むのを感じながら、恐る恐るそのページにもう一度目を通した。 「なんだよ…これ」 勇也が夕食を作ってくれた けど私はそれを薙ぎ払って捨てた 私が悪い 私が悪い 震える手でまた次のページを捲る。 一体どこで何を間違えたの あいつのせいで 私のせいで 勇也が どうして思い通りにならないの 違う 違う あの子は本当に それは俺の知っている母親と同じようで、どこか違っていた。自分から謝ることも、自分自身を責めることも決してしたことが無かったはずなのに。 いつだって俺に当たるのがいつものあの人だった。 怖い 一人は怖い 勇也はいつも一人 こんなお母さんでごめんね そんな軽薄な言葉、誰が信じるものか。信じてはだめだ。また騙されて傷つくだけだ。 もう前の仕事にも戻れない 夜の仕事は辛いことばかり 辞めたい 戻りたい 帰りたい あの頃の三人に どうして私の全てを奪ってしまったの 彼女のすべてを奪ってしまったのは父親だったあの男か、それとも俺なのか。 勇也は何だってしてくれた 高校に入ればもうあんな格好は しないと思っていたのに あの頃の勇也は帰ってこない あの人は帰ってこない 私が悪いの 私が ごめんなさい ごめんなさい 誰が悪かったんだろう。俺が悪かったのだろうか。母親に背いて、構ってほしいがためにこんな格好をして、喧嘩に明け暮れて。 けど捨てたのはアンタの方じゃないか。夫も子供もそっちのけで男と遊んでいたじゃないか。熱を出したあの日、俺を一人家に置いていったじゃないか。最低だ、嫌いだ、アンタなんて。 ノートにぽたぽたと水分が垂れて、染みを作る。 どうして愛してるなんて言ったんだ。愛してるなら昔からちゃんと俺を見てくれれば良かったのに。 好きだったんだ。あんな母親でも、自分の世間体のためだとしても、あの男から守ってくれた。 次のページ以降はまたグチャグチャに塗りつぶされていて分からない。文字が書いてある最後のページを開くと、またそこに新しい染みができていく。 愛し方なんて分からない 今まで誰を本当に愛せたか分からない 周りから見離されてもあの人と愛し合え ればそれで良かった 愛し合うだけじゃ何も解決しない 勇也は私とあの人の愛の結晶だった だからすべて押し付けた 産まなければよかったと何度も思った そうしたらもっと違ったかもしれないって それなのに私はまだこの子を離せない 自分が産んだんだもの 守りたかった ごめんね こんなお母さんでごめんね もう自分が分からない 疲れてしまった そんなこと一度だって言わなかったのに。もう簡単に信じたりはしたくない。それなのに自分の頭は勝手に都合のいい方に傾けて考える。 この人に愛されたい気持ちは今だって同じなんだ。これだけあの人の意志に背いておきながら言われた通りに受験をしたのは、ヒステリーを起こされるのが面倒だったからではない。 あの人がおかしいのは分かってた。罵倒してきたかと思えば愛してる愛してると繰り返す。 それでも、まだ諦めきれなかった。本当に心から愛されたかった。母親がいなくなった今、もう先なんて何も無かったはずなのに勉強をし続けたのはあの人との約束を守るためだった。 そんなこと今はあまり意識していなかったけれど、知らないうちにそれに縛られていた。 頑張ったってもうあの人はいないのに。 『ちゃんと勉強して、いい成績を残すのよ。お母さんとの約束だからね。勇也ならできるわ、お母さん、あなたのこと__』 頑張ってる、こんなに。ずっと頑張っていればいなくなった今でも気づいてくれるんじゃないかと、無意味だと分かっていても約束を守ろうとしてしまう。 今自分はこんなにハルから愛されているのに、何故諦めきれないのだろう。この日記を読んでしまったから尚更その気持ちが強くなってしまう。 どうしたらいいのか分からない。ここに書いてあるのが本当だったら、あの人は__ ノートからはらりと何かが落ちる。それは栞だったようで、手に取ってみると中には押し花が入っていた。なんの花なのかはよく分からない。青い色の小さな花。小さい頃に幼稚園かなにかで育てていた花に似ている。 裏を見てみると、そこに書かれていたのは母親の名前ではなかった。 あの男の、父親だった男の名前だった。 「勇也…?どうかしたの」 「…なにも、ない」 「泣いてる?」 「泣いてない、入ってくんな」 そう言ったはずなのに、声が上ずったのがバレたのかハルは部屋の中に入ってくる。特にノートを隠そうとも思わなかった。 「どうしたの」 「なんでもない」 「何でもなくて泣くことないでしょ」 「泣いてない」 後ろから抱きしめられ、頬を伝ったままの涙を拭われる。その優しさが悲しくて、愛しくて、自分の体を包むその腕をそっと掴むと、更に強く抱き寄せられて大きな手が頭を撫でた。 「そのノートどうしたの、見ても大丈夫なもの?」 「…俺の、母親の」 自分からノートをハルに差し出して、そのページを捲っていくハルの胸に自ら縋り付いた。 「…勇也は、これ見てどう思ったの」 「信じたくない」 「どうして」 「…怖い。信じるのが」 ハルはノートを閉じて俺の背中を擦る。それでまた涙が溢れてきた。 「いい方に考えたらいいよ。もう確かめようが無いんだから」 「それは…そうなのかもしれねえけど」 「勇也がどうしても信じられないのならそれでもいいと思う」 「俺は…」 信じたい。けれど、この前迂闊に信じた結果があれだ。 望んではいけないと分かっていても、期待を抱いてしまう。ハルだけでいいのに、なんて俺は贅沢なのだろう。 「この栞…ヒヤシンス?」 さっきの押し花のことだろうか。そういえば昔育てていた例の花もそんな名前だったような気がする。 ハルはノートの隣に置かれていた花言葉の本を手に取って、また中をパラパラと捲り始めた。

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