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第190話Miss Flower⑤

「これ、裏に書いてあるの…」 栞の裏にはyusukeとローマ字で書かれていたはずだ。確かハルはあいつの名前を知っていたから、見たらすぐに分かるだろう。 「…皮肉なもんだね」 何を思ってハルがそう言ったのかは分からない。ハルの腕から抜け出そうとしたけれど、一向に離してはくれなかった。 「もう、いいから」 「良くない。勇也が泣き止むまでここにいる」 「泣いてねえよ」 そんな俺の強がりを制すようにコツンと軽く頭を叩かれ、その暖かい香りに包まれた。 「本当に離して欲しかったら殴るなり蹴るなりしていいから」 殴ったり蹴ったりするつもりはないし、そんなことを先に言われてしまったら離れるに離れられない。 実際ハルの腕の中は心地よくて、どこにいる時よりも心が落ち着いた。 「愛されたいと思うのは罪じゃないよ。我儘でもない。人間なら誰だって持ってる欲求だと思う」 「何の話だよ」 「信じたくもなるよね。だってずっと愛して欲しかったんだから。希望が見えたら縋りたくなるのは本能だよ」 ハルがこんなことを言えるのは、きっと同じだからだ。 だからってどうすればいいのか分からない。ハルだってきっと母親絡みで苦しい思いばかりしてきただろうに。 「過不足なく愛されるのは難しい。でもそのノートから片鱗が見られるのなら信じてもいいと思うよ。信じたって損は無いし、悪いことじゃないから」 俺の母親に関しては真意の確かめようがない。もうこの世にはいない人になってしまったから。 本当に信じていいのだろうか。少しでもあの人が俺をちゃんと見てくれていたと。 「勇也は、お母さんが嫌い?憎い?」 「憎いに決まってるだろ」 「本当にそれだけ?」 違う。それだけじゃない。けれどそれを俺が口にしてしまうのははばかられる気がした。 「いいよ、何でも言って。俺も母さんが憎かった。けど本当に愛して欲しかったんだ。勇也もそのこと受け入れてくれたでしょ」 「俺は…」 「うん」 「愛されたかった、あの人に」 それを言葉に出して言うと、何かが外れたみたいに涙がまた溢れ始めた。 小さな子供みたいに泣きじゃくって、息の仕方が分からなくなる。それと同時に何度もフラッシュバックするあの男の記憶、そして家族三人で過ごしていた時間。 「大丈夫、大丈夫だよ」 「も…いや、だ…全部」 「ゆっくり息して、大丈夫だから」 本当に全部が嫌になったんじゃない。分からないんだ、今更どうすればいいのか。何が正しいのか。 「…分からないよね、どうすればいいのか。俺だって父さんとの接し方まだ分からないし、母さんのことだってショック受けたまま」 ただ泣くことしかできなくて、ハルのことを考えるとまた辛くて嗚咽を漏らした。 「ごめ…お前、も…ごめん…」 「謝らなくていいんだよ。確かめようがないなら、いくら都合よく考えたって大丈夫。それでまた傷ついたら、俺がこうやって抱きしめるから」 今はこの優しさに甘えてしまってもいいのだろうか。ハルの胸に抱かれたまま、誰にも言えなかった辛い記憶を嗚咽混じりに話し始めた。 「最初は…違ったのに、男と遊ぶようになって」 「うん」 「それ、から…あいつが、俺に…」 あの男を思い出して呼吸が乱れる。ほとんど喘ぐように息をしてハルの胸元に涙を零していった。 「無理しなくていいよ、大丈夫だから。俺がいるから」 「俺が生まれてきたから…俺が生まれてきたのが悪かったから、だから」 「そんな事言うなよ!勇也が生まれてきたことが間違いなわけない。それで救われる人間だっているんだよ、俺みたいに」 ハルがここまで言ってくれているのに、全て綺麗事だと思ってしまう自分が嫌だ。 「俺のせいで」 その先の言葉を紡ぐ前に、ハルの唇が強引に重ねられた。まるでそれ以上何も喋るなとでも言うように。 「自分ばかり責めないで。悪いのは勇也じゃない。言い切れはしないけど、お母さんはきっと勇也のこと少しでも思ってくれてたよ」 「けど」 「そうじゃなくても、いつだって俺が勇也のこと思ってるから。それじゃ足りない?」 俺は勝手に塞ぎ込んでかけてくれた言葉を無視し続けてきた。愛されることが怖くなっていたんだ。それが嘘なんじゃないかと疑いそうになる。目の前にいる人は決して嘘なんかなく自分を愛して包み込んでくれたのに。 今どうしたいか。何も分からない。ただ、この温もりに包まれていたい。 その胸に顔を埋めて、目を伏せる。 「辛かったよね、きっと。愛されたくて、どうして自分だけって。人の幸せすら憎くて、 消えたくて。なんで自分が生まれてきたのかも分からなくなってさ…」 その言葉に、小さく頷く。 「いつかも言ったけど苦しみは人と比べられない。けど、他の誰かに愛されれば変われるような気がするんだ。俺は少しずつ変われた。それでも愛されたい気持ちは止まないけどね、人間は欲張りだから」 自分がハルに愛されながらも、親からの愛まで望むことは我儘で欲張りで、汚いことだと思っていた。 望んでしまってもいいのだろうか。欲張ってそこに手を伸ばしても。 「勇也が好きだよ。少なくとも俺のことくらいは信じてほしいな」 優しく髪の毛をかきあげて、こめかみにキスを落とされる。恥ずかしいかどうかなんて気にもせず、離れまいとばかりにハルの体を抱きしめた。 「ご飯、どうする?」 「…つくる」 「手伝うよ」 「ん…でも、も…すこし、このまま」 何をするでもなく、ただその腕の中でじっとしていた。よく耳を済ませば、小さな胸の鼓動が伝わってくる。それがまた心地よくて、眠らないように目を開いた。

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