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第197話Trip②

ハルの冷たい手が耳にあたり、その霜焼けの赤みが伝染したかのように俺の耳も赤くなっていく。開けた時から付けていたチタン製のピアスが抜けていく感覚が少し痛くて、ぞわぞわと何かが背中を駆け巡っていくような気がした。 「んっ…」 「ごめん、キャッチがちょっと固くて…痛かった?」 「別に、これくらい…」 キラキラと揺れる少し長めのピアスがホールを通っていく。また僅かな痛みが走ってハルの服の裾を掴むと、困ったように微笑まれた。 「そんなに痛い?」 「大、丈夫…」 片耳だけ少し重みがあるのがわかる。動く度に視界の端に光るそれが映った。 「うん、やっぱり綺麗だね」 目を合わせたままそう言われると、ピアスのことを言ったのかそれとも自分のことを言われたのか分からなくて俯いてしまう。 「勇也のこと言ったんだよ」 「…うるせえ」 心を見透かされたみたいにそう言われて、ますます目を合わせづらくなる。 「じゃあ早速外に出ようか」 差し出された手を弱く握り、依然として冷たい風の吹き付ける外へ出た。コートは流石にハルに返したけれど、マフラーは俺の首に巻かれたままだ。ハルの手は変わらず冷えきっているようだったので、なんとなくそれを温めるように何度か握り返した。 「やっぱりスワンボートのりたいんだけど」 「嫌だ」 「いいじゃんせっかく来たんだから…だめ?」 「…分かったよ乗ればいいんだろ。俺は漕がないからな」 嬉しそうに小走りになるハルに半ば引きづられながらボートの乗り場へ行くと、色褪せた帽子を被った人の良さそうな中年男性が嬉々としてこちらに近づいてきた。 『お兄さん達、ボート乗るの?』 「はい、いくらですか?」 『30分で二千円。一人千円だね』 たかがスワンボートで高すぎないかと思ったけれど、ハルはそれを特に怪しむこともなく財布から千円札を二枚出してその男に渡した。 『じゃあ30分したら戻ってきてね』 「はーい」 タオルで無造作に拭かれた座席へ座り、ボートに繋いであったロープが外されると、白鳥を模したボートはゆっくりと白波に揺られ始めた。 ハルが勢いよく漕ぎ出すものだから、ボートもそれに呼応するようにものすごい速さで前進していく。 「凄いね、初めて乗った」 「楽しそうだな…お前」 はしゃいでいるのはハルだけで、俺はボートの揺れに酔わないように努めるので精一杯だった。けれどせっかく楽しそうだから、ポケットからスマートフォンを取り出してそのハルの姿を収める。それに気づいたハルがピースサインをして笑顔を向けてくるのが堪らなく愛おしいと思ってしまった。 「あ、そういえば勇也乗り物酔いするよね?大丈夫?」 「知ってるならそんな速く漕ぐな」 「ごめんね、気分悪かったらすぐ戻るけど…」 「別にいい」 ハルの肩に頭を載せて体重を預ける。こうしていると幾分か酔いが収まって楽だった。 「キスしてもいい?」 「そんなこといちいち聞くな」 「いきなりしたら怒るくせに」 前もって宣言されると変に意識して緊張するから、どちらにしたって心臓に悪いのは変わりない。無言で顔を少し上げて目を閉じると、柔い唇が重ねられて短く音をたててから離れていく。 「物足りない?」 何も言わず一度開いた目をもう一度閉じる。今度は重なった唇が何度も角度を変えて噛み付くように吸い付いて、力の抜けかけた体を優しく抱きとめられた。 「…長い」 「その割には嫌がらないね?」 「別に…嫌じゃねえし」 頭を執拗に撫でられて鬱陶しく思いつつも、そのままにさせておいてやると好き勝手俺の髪や首にキスを落としていった。 「そろそろ30分経つけど、もう戻っていい?」 「勝手に戻れよ」 「もっとしてほしいのかと思った」 「…もういい」 ボートの中景色を楽しむわけでもなくこんなことで30分が経ってしまった事実が恥ずかしい。 乗り場の方へ戻ると先程の男がそこで待っていて、ボートから降りた時に飴玉をふたつ渡された。 「おじさん、俺達もう高校生なんだけど」 『いいから貰ってくれ。二人は東京の方から来たの?』 「そうだよ」 『道理でかっこいいわけだ。もしかしてモデルとか俳優か?』 「違う違う。それは言い過ぎだって」 そう言ってはいるものの満更でもなさそうな顔をしている。確かに、ハルほどの容姿をもっていればその自覚があるのは当たり前だ。実際今でもまだあの整った顔に見つめられると変に目のやり場に困ってしまう。 『二人は友達?それとも兄弟?』 きっとここは友達だと返すのが普通なのだろうけど、それを少し悲しく思ってしまう自分がいる。ハルは何でもないような涼しい顔をして貰った飴玉の封を切って口を開いた。 「ううん、恋人。デートしに来たんだ」 その飴玉を口に含んでゴミをポケットの中に突っ込むと、また俺の手を引いて歩き始める。俺もその男も驚くばかりで何も言えなかった。 「お前、なんであんなこと」 「本当のこと言っただけだよ。不満?」 俯いて首を横に振る。不満ではない。不満ではないけれど、もしあのとき恋人と答えた後に怪訝な顔をされてしまっていたらと思うと耐えられない。 自分が異色だと思われることはもう慣れたし構わない。けれどハルにはそうなって欲しくないという思いがまだ自分の中にあった。 「まだ気にしてる?前にも言ったよね、普通の規範なんてないって。俺達の関係は自然なものだよ」 「けど、俺と違ってお前は」 「違わないよ。大丈夫、俺達は何も悪いことしてないんだから」 繋いでいたハルの手に力が込められる。何でもないような顔をしていたけれど、気にしていたのは俺だけではなかったのかもしれない。いつもは逆だと思っていた。ハルは気にしていないのに、俺ばかり怖がっていると。 自分もその手をしっかり握り返して、お互いの気持ちを確かめ合うように指を絡める。 そうやって道もわからないまま湖に沿って歩いていると、どこからかラベンダーの香りがした。

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