205 / 336

第205話Higher②

雨はまだ降り続いている。列は一向に前に進む兆しを見せず、湿気を含んだハルの髪は少しうねっていた。 「しりとりのりからね」 「…りんご」 「ゴリ…ごま」 「ゴリラでいいだろ別に」 今朝のことをまだ根に持っているのか、またムスッとした顔になった。拗ねた時に唇を尖らせる癖があるようで、それもまた子どもみたいだ。 「次勇也だよ」 「ま…ま…マシュマロ」 「ローショ…ローマ」 「何言いかけたんだよ」 そんな調子でしりとりを続けていると、列は少しずつ前に進みようやく傘を閉じることが出来た。一度離れてしまったからかハルの背中が濡れていて申し訳なくなり、自分が着けていたハルのマフラーを返した。 「マフラー」 「ら…?ラーマ」 「しりとりじゃねえよ、返す。つーかお前わざと全部まで終わる言葉にしてるだろ」 「いいよそのままつけてて」 マフラーを押し返されて、それをまた俺の首に巻かれる。よくよく考えたらマフラーをしないとキスマークが露わになってしまうし、危ないところだった。 ハルの指先はまた冷たそうに赤くなっている。マフラーの代わりに、その指先を自分の手で握って温めた。 「勇也…?いいの、ここで」 「…いい。俺達が気にする必要なんてねえだろ」 周りを目に入れなければいい。人目を憚らずという訳では無いけれど、確かに自分達は二人でここにいるのだと誇示するために。 「…しりとりどこまでやったっけ」 「忘れた」 「じゃあもういいか」 手をぎゅっと握られて、ハルが微笑む。見たかったのはこの笑顔だった。 そのとき、パーク内に放送が流れる。どうやら雨が止んだようで、止まっていた絶叫アトラクションが動き出したらしい。それを聞いた周りの客達は、ぞろぞろと絶叫アトラクションの方へ走っていった。 「いきなり空いたな」 「まあいいんじゃない?先にジェットコースターとか乗りたい?」 「別に一生乗らなくてもいい…」 この先の事を思うとため息が出る。ここからも動き出したらしい絶叫マシンが見えるが、あの速さの乗り物に平常心で乗れる気がしなかった。 一方列の方は随分前に詰められて、三十分 も待ったらすぐに中に入ることが出来た。 「すげえ作りこんでるんだな…」 「ねえ、なんで勇也は大丈夫なの?」 何か出てくる度に繋いでいたハルの手にぎゅっと痛いほどの力が入るのがわかる。それが面白くて先に進んでいけばまだ行くなと怒られて手を引かれた。 作り物に怯える自分の恋人が可愛くて仕方がない。今でこそ余裕そうな顔を作っているけれど、仕掛けが動くと下を向いて俺の陰に隠れるのだった。 「もう一生行きたくない」 「悪かったって、怖かったか?」 小馬鹿にしたようにハルの方を見て笑いかければ、また唇を尖らせて睨んできた。 「かっこ悪いよね、序盤でリタイアしちゃった」 「…お前も案外可愛げがあるんだなって思った」 「え?俺が?なんで…?」 不思議がるハルを横目に、ハルが乗りたがっていた絶叫系アトラクションの列を目指して歩いた。 もちろん自分は乗りたくなんて無かったけれど、ハルの苦手なアトラクションに付き合わせてしまった手前断るわけにはいかない。自分だって、ハルに格好悪いところは見せたくなかった。 「79メートルから落下だって…勇也大丈夫?」 「大丈夫に決まってんだろ」 「3分半もあるんだね、楽しそう」 「3分半…?」 79メートルだとか3分半だとか、自分の知っているジェットコースターとは桁違いの数字を言われてもはやどれくらいなのか想像もつかない。 一時間待ちとのことだったけれど、何も考えず並んでいたら自分の番はあっという間に来てしまった。 「…ベルトの数おかしくないか」 「こんなもんだよ、落ちたら死ぬからね」 「落ちるのか?これ」 「そんな不安がらなくて大丈夫だって」 3種類ほどのベルトが付けられレバーをしっかりと掴む。ゆっくりと発車したその時から冷や汗が止まらなかった。 「まだ30メートルか…半分も行ってないね」 半分もいっていないのにこの高さなのはおかしくないか。自分はもう言葉を発するような余裕もない。 40…50…と表示が見えて、70を越したところで落下する位置が確認できた。既に生きた心地がしなくて、目を瞑りレバーから片手を離してハルの手を力いっぱい握った。 79メートルからの落下はその体感時間が異様に長く、ハルは楽しそうに叫んでいたけれど俺は声すらまともに出ない。目を途中で開けてみたら辺りは雨のせいで濃霧に包まれて何も見えず、それが余計に恐怖心を煽って目が閉じられなくなった。 そしてようやく3分半の地獄を終え、半ば意識を失った状態のままシートの上で放心する。 「楽しかったー…勇也、大丈夫?涙出てきてるけど」 目を開けていたせいで勝手に涙が出てきていた。感情としてはもうなんと言い表していいか分からない。寧ろ無心なのかもしれない。 「ほら、次の人乗るから降りるよ…聞こえてる?」 「…動けねえ」 「え?」 腰が抜けたのかなんなのか、格好悪いどころの話ではないが体が全く動かない。困ったように辺りを見回したハルは、そのまま俺の体を持ち上げてシートから降りた。 「そんなに怖かった?ごめんね、よしよし」 子どもをあやす様に頭を撫でられ、それを振り払うわけでもなくハルにしがみつく。驚いたハルの顔は少し赤らんでいた。 「勇也…結構、周りの人見てるけど大丈夫?」 そこでようやく我に返ってハルから距離をとる。けれど、ハルのコートの袖はしっかりと掴んでいた。 少し歩くと、アトラクションの出口付近に写真が表示されているのが見える。ハルはその写真を見るやいなや腹を抱えて笑い始めた。 「はは、勇也の顔めっちゃ怖いんだけど」 「うるせえ見るな…」 楽しそうに笑っているハルの横で、目を開けたまま硬直している自分。そんなに写りがいいわけでもないし、あまりハルには見られたくない。 「勇也、気分大丈夫?」 「…最悪だよ」 「ごめんね、そうだよね。最初に並んだので随分時間経ったしご飯食べてなにか乗ったら暗くなる前に帰ろうか」 手を繋いだまま、パーク内のレストランへ向かって座っているように促される。ハルが注文しに行っている間、席に座って一人で待っていた。遠目からハルが見えるけれど、あいつも一人でいるせいか周りの女子から何度も声をかけられている。 それで少し不機嫌なまま昼食をとって、別のアトラクションにもいくつか並んだ。そのうちの一つが思っていたよりもずぶ濡れになるアトラクションだったようで、レインコートを着なかった俺とハルは頭からつま先までびしょ濡れになった。 暗くなる前にとは言ったものの、ハルといると時間はいつの間にか過ぎていくもので、冬の空は気付かぬうちに暗くなり始めていたのだった。

ともだちにシェアしよう!