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第216話Identity④
今の一瞬で何が起こったのだろうか。驚きで涙も引っ込んだ。俺から顔を離していった朝比奈も、何が起こったかわからないと言ったような顔をしている。かきあげていた前髪が降りてきて、またその目は隠れた。
「今、僕は何を…」
口元を押さえた朝比奈がそう言うと、ガシャンという無機質な何かが落とされたような音がする。ぱっとそちらを振り返れば、そこには弁当箱を滑り落としたハルが呆然と立ち尽くしていた。
その表情からして、今のを見られてしまっていたのだとすぐに分かる。心臓の音が大きくなり、罪悪感が自分の胸を占領していった。
「何してんだよお前!」
ハルはそう低く怒鳴りつけて、朝比奈の胸ぐらを掴み壁に押し付けた。俺は足がすくんでしまって動けず、今の誤解をどうしたら解くことができるかばかり考えている。
「や、やだな…ただの事故じゃないですか」
「そんな訳ねえだろ」
「そうですよね、双木先輩?」
自分の方に話を振られて、冷たい目をしたままのハルと目が合う。ハルに嫌われたくないけれど、朝比奈に俺達のことを周りにバラされるのも嫌だった。うまく声が出なくて、迷いながらも朝比奈の言葉に対して首を縦に降ってしまった。
「なんで勇也まで…」
ハルは朝比奈を突き放すとこちらに向かってゆらゆらと歩き始めて、俺の手首を掴みそのまま引きずるように剣道場の中へ押し込んだ。
剣道場の中に人はいないようだ。外から差し込む光だけが頼りだったが、ハルが後ろ手に扉を閉めると中は真っ暗になる。
「違…ハル、あれは…」
「違うって何が?あれ朝比奈だよね。何であんなところにいたの、勇也が追いかける必要なんてあったの?」
「それは…だから、その」
一体どう説明すればいいのだろう。ジュリエットの件から追って話すのも面倒だし、そもそも朝比奈の素の性格のことから言わなければならない。混乱した頭ではうまく言葉をまとめることが出来なかった。
「俺に隠し事しないで」
「そうじゃ…なくて、だから」
「俺は丁度その瞬間しか見てないからその前に何があったのかは知らないけど、どうして拒まなかったの」
確かに、力の差がそれほどある訳では無いのだから振りほどくくらいはできただろう。けれど、それが出来なかった理由を明確に伝えることが出来ない。今こうして俺が戸惑っている間も、ハルは俺が言い訳を探しているかのように見えているのだろうか。
ハルに嫌われたくなくて、失望されたくなくて、何か言わないといけないのに開いた口からは空気が抜けていくだけだった。
そんな俺を見たハルは一度息を吐いて、先程よりも幾分か優しい口調で話しかけた。
「俺だって勇也を責めたい訳じゃないんだよ、ちゃんと言ってくれなきゃわからない」
「ごめん、俺…ちが…違う」
「なんで謝るんだよ…朝比奈くんがそういうことするやつなのかどうかは知らないけど、何か脅されてるの?」
これはハルに言ってもいいのだろうか。また黙っていてあんな事になるのは嫌だ。
朝比奈も朝比奈だ。あっちからしてきたくせに驚いた顔をするし、俺のことを散々罵っておいて何故あんなことをしたのだろう。ただ単に俺に対する嫌がらせだったのかもしれない。
意を決して口を開こうとした時に、運悪くチャイム音が先に鳴ってしまう。ハルはため息をついて、へたりこんだ俺の前にしゃがんだ。
「家に帰ったらちゃんと話は聞いてあげるけど、他の男とキスしたことは許してないから」
話を聞いてくれるという意思があったことだけは安心できるが、ハルの声のトーンは完全に怒っているときのそれだし、はっきり許さないとまで言われてしまった。
自分は悪くない。咄嗟に拒むことが出来なかっただけだ。そう思ってもまだ罪悪感が残るのは、自分が正直にハルに伝えることが出来なかったからだろう。
ハルは先に剣道場を出ていってしまい、後を追おうと俺が出たとき、外に朝比奈の姿は既になかった。
教室に戻った後はハルと目が合うことが一度もなく、遠目から見ていても不機嫌なのがよく窺えた。
昇降口へ行くとハルが待っていてくれたことに驚くけれど、依然として目は合わせてくれない。交差点の先も手を繋ぐことは無かった。それに関しては写真のこともあるから、少し安堵すらしてしまったのだけれど。
家に入って自分の部屋に荷物を置くと、部屋着に着替えたハルがドアから顔を覗かせてハルの部屋に来るよう無言で手招きをしてくる。
部屋に入るなり、手を強く引かれてベッドに押し付けられ、いきなり唇を重ねられた。
「んっ…んん…い、やだ!」
それが苦しくて、また昼のことを思い出して思わずハルを突き飛ばしてしまう。ハッとしてハルの方を見れば、悲しみとも怒りとも取れる表情で、俺の両腕を掴んだまま僅かに震えていた。
「嫌だってなんだよ」
「ちが…そ、じゃな…」
「あいつは良くて俺は嫌だって言うのかよ!」
ハルは自身もベッドの上に乗り上がると、乱暴に俺の制服を剥いでいった。
「ハル…い、やだ…やめろ!」
俺の声は届いていないのか、露わになった首元に噛み付いてきた。甘噛みなんてものではなくて、皮膚に歯が食い込んでその痛みに呻き声が漏れる。
「あっ…いた、やめろ…ハル」
ハルの頭を押さえつけても離れようとせず、怒りをそのままぶつけるように俺の体へ歯形を残していく。顔を上げたハルは虚ろにこちらを見つめて、俺の耳元へ話しかけた。
「何か理由があるんだって分かってるよ、勇也が好きなのは俺だから。けどあれを見た時俺がどんな気持ちだったか分かる?」
「ご…めん」
「だから…お仕置きだよ」
そう言って俺を見据えたハルの目は、いつかの冷たさを取り戻したかのように見えた。
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