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第230話Betray

いつもとは寝心地が違うからか、妙な気分で目が覚める。カーテンの隙間から見える外はまだ薄暗いから、今は早朝だろうか。 流石に今降りていったら朝比奈も起こしてしまうと思い静かに体だけを起こそうとすると、ロフトの上に誰かがいることに気づく。 正確には、隣の部屋のロフトからこちらへ匍匐前進するように近づいてくる人物がそこにあった。 その人物はハッと顔を上げて俺のことを認識すると、鼓膜の破れそうなくらい甲高い叫び声をあげた。 『きゃー!!!!誰?!?!』 あまりにもその声が大きいから耳を抑えて狼狽える。こちらも驚いたことには驚いたのだが、叫び声も引っ込んでしまった。 この大声に朝比奈も目が覚めてしまったのか勢いよくベッドから体を起こす。 「うるっせえ!朝っぱらから騒ぐなクソアマ!」 『はぁ?!誰がクソアマよ!ていうかロフトになんかいるんだけど!お化けじゃないよね?!』 「人間に決まってんだろクソ!学校の先輩だっつーの!」 『えっ、そうなの?』 朝比奈からクソアマ呼ばわりされたこの女は、もしかしなくても朝比奈の姉だろう。 「双木…です、事情があってお世話になってます」 『いきなり大きい声出してごめんね!泰生の姉です、よろしくね双木くん』 「は、はい…」 手を握られブンブンと振られる。朝比奈姉は母親似のようで、随分明るい性格だ。 『ていうか泰生友達出来たんだね、良かったじゃん』 「うるせえって!早く部屋もどれブス!」 『最低!…嫌だねこんな弟、双木くん。双木くんよく見たらすごいかっこいいじゃん!ていうか美人系?』 「弟の友達に手出そうとしてんじゃねえよアバズレ!」 『出そうとしてないし!美形だけど別にタイプじゃないもん!』 目の前で繰り広げられる喧嘩についていけず黙りこくっていると、大きな音と共に部屋の扉が開いた。 『なんなの朝っぱらから!ご近所さんに迷惑でしょうが!』 二人の倍くらいの声量で朝比奈母がそう怒鳴りつける。この家の人間は皆こうなのだろうか。遺伝子というのは凄いものだなと今ここで思い知った。 「お前のほうがうるせえよババア!そもそも元はと言えばこいつが!」 『お母さん!私悪くない!泰生が…』 『二人とも黙ってな!ゴミ出しと風呂洗いプラストイレ掃除と庭の雑草毟りやってもらうからね!』 朝比奈母の一喝により二人は見事に口を閉じ、姉の方が俺に向き直って両手を合わせる。 朝比奈母はすぐに部屋を出ていってしまった。 『うちの家うるさくてごめんね、いつもこんな感じなの』 「ああ、いや…大丈夫です」 「お前がいるからうるさいんだろうが…つーか彼氏の家行ってたんじゃねえの、振られたか?」 『違います〜忘れ物取りに来ただけです〜夕飯食べたらまた彼氏の家行くから』 喧嘩するほどなんとやらとは言うけれど、この二人はまさにそうなのではないだろうか。本当に仲が悪いわけでは無さそうだ。 朝比奈姉がロフト伝いに自室の方へ戻っていくと、朝比奈は大きなため息をついた。 「うるさい女ばっかですみません」 「賑やかでいいじゃねえか」 「本気で言ってます…?」 二度寝できる雰囲気でもなかったので、それとなく準備をして下に降りる。朝比奈母はわざわざ俺の分の弁当まで持たせてくれた。 『じゃあ二人とも行ってらっしゃい』 「はぁ?なんで俺が先輩と仲良く一緒に行かなきゃなんねえんですか意味わかんねえ」 『何言ってんの友達なんでしょ?いいから今日くらい早めに学校行きなさい!』 押し出されるように家から出て、なんとなく気まずい空気のまま朝比奈と学校へ向かう。 「電車の中くらいは一緒にいてやってもいいですけど、最寄りついたら別々に行きますからね」 「なんで上からなんだよ」 朝比奈は言った通り電車の中では俺の近くに立っていてくれた。恐らく電車で気分が悪くなるのを知って配慮してくれたのだろう。 学校の最寄り駅からはタイミングをずらして出て、朝比奈は俺よりも先に学校へ歩いていった。 教室に入るとまだ生徒はあまり来ておらず所々散らばって皆駄弁っているが、ハルの姿はまだない。 他クラスの生徒も顔を出しているからか、理系では見たことのない顔も教室の中にいた。それは女生徒だったがどこか見覚えがある。思い出してみるとそれはいつかハルにまとわりついていた女子のうちの一人だ。この学校の中でも目立つ派手な生徒だった。 『本当にありえなくない?!ね〜そう思うでしょ?』 うちのクラスの女子と何やら話しているようだが、声が大きいからこちらまで内容が筒抜けだ。 『せっかく久しぶりに遥人の家行ってあげたのにさぁ…』 聞き流していればよかったものの、俺の耳はその単語をすぐに拾ってしまう。言いようのない気持ち悪さに襲われて、つい逃げるように教室から出ていってしまった。 あの女が家に行ったというのは、ハルが誘ったのだろうか。そうと決まった訳では無いのに、胸が突き刺されたように痛くて仕方がない。 これから教室に戻ってもしハルに会ったら、俺はどんな顔をしていればいいのだろう。 当たり前だけれど、この時間裏庭には誰もいない。段差の上に腰を下ろして、その場で小さく蹲った。 胸に棘が刺さったまま抜けない。自分から突き放したくせに、いざこうなってしまったらどうしたらいいかも分からなくなる。こういうことにならない自信が俺のどこにあったのだろうか。 家に帰ることも出来ないし、今日はこのままここで眠って授業はサボってしまおう。 起きるのが早かったからかまだ眠い。けれど眠りたかったのは、すべて忘れたかったからなのかもしれない。目が覚めたら今までのことは全て夢で、ハルが自分だけに微笑みかけてくれたらどんなにいいか。 いや、もう一生目覚めなくたっていい。目を固く閉じ、膝に額をつけて光を遮った。 どんなに酷いことをされても俺がハルを好きでいてしまう所以が分からない。分からないけれど、漠然と好きだという気持ちだけはいつでもあった。 ハルに大切にされたい。嫌われたくない。本当はずっと側にいたい。声に出すことのなかった欲求は、ただただ大きさを増して自分の心を押しつぶす。 吐き出せない心の行き場は、どこにあるというのだろうか。 どれくらい時間が経ったのか分からないが、誰かに肩を叩かれる感触がある。 頭の裏に浮かんでいたのはハルの顔ばかりで、その肩を叩いた手を離すまいと掴んでしまった。 「ハル…!」 呼び止めてから、その掴んだ手は全く別の人物のものだったと気づく。掴まれた方は硬直して、その前髪に隠れた目を見開いた。 「…何回声掛けても反応ねえから、死んでんのかと思いましたよ」 「朝比奈…」 振りほどくように手を離され、行き場の無くなった自分の手を自分で強く握りしめる。 「小笠原さんと間違えるって、それなんの嫌がらせですか」 「…悪い」 「別にいいですけど…また泣いてたんですか」 言われてから気づいたけれど、目の周りがヒリヒリと痛む。 瞬きをすれば残っていたのであろう涙の雫が目の端から垂れていった。 「あーもうそんなゴシゴシ擦ったら痕になりますよ。優しく拭いてください」 朝比奈は学ランの下からワイシャツの袖を引っ張り出して目元を弱い力で押さえ、涙を拭いきったのを確認するとその気だるげな表情のまま頷いた。 「もしかして今日ずっとここでサボってたんですか?」 「…朝来て、すぐ…ここで寝てた」 「朝から?!もう昼休みなんですけど?」 まさか昼休みまで自分が眠っていられるとも思っていなかった。何故ここに来たのかを思い出し始めて、また胸が痛くなる。 夢じゃなかったんだ。それがどうしようもなく悲しく思えて、気を抜くとまた目から雫が落ちていった。

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