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第231話Betray②

「また何か、あったんですか」 朝比奈にそう聞かれて、流れた涙を拭って首を横に振る。 「何も無いのに泣く意味が分からないんですけど」 「ほ…とに、何も…な…」 「…小笠原さん関連ですか?」 間を置いて、小さく頷く。朝比奈に言ったって何になる訳でもないのに、どうして俺は素直に肯定してしまったのだろう。 「内容は別に言いたくないなら言わなくていいです。けど泣きたいくらいにはしんどかったんでしょ、無理しなくていいですから」 今優しくされるとどうにも涙は止まらなくなってしまう。さっきと同じように、零れた涙を朝比奈がシャツの袖で拭っていった。 「そんなに辛い思いしてるのに、どうして離れようとしないんですか」 「そ…れは」 自分でもよく分からない。分からないけど、自分のこの気持ちが消せないという事だけははっきりしていた。 「何か酷いことされたんじゃないんですか?それなのにどうして先輩はまだあの人に拘るんですか、おかしいですよ。僕だったら…」 朝比奈は拳を握りしめて、俺の方に伸ばした腕を力なく元に戻した。唇を噛み締め、もう一度腕を伸ばし強引に俺を腕の中に引き込む。 朝比奈の胸は前と同じ様に脈動の音がよく聞こえる。いきなりのことで自分も驚いたからか、朝比奈のと呼応するように鼓動が速くなり始めた。 「…泣く場所くらいは僕があげます。だからもう泣かないでください。あんたが泣いてるの見ると、イライラするんで」 「ご…め、ん」 「もうやめませんか。小笠原さんと一緒にいなくたって先輩は幸せになれますよ。ただでさえ男同士って大変でしょ。偏見とか…それでも小笠原さんから離れようとしない理由ってなんですか」 朝比奈の腕に力が込められて、震えが伝わってくる。 ハルじゃなくても幸せになれる。確かにそうかもしれない。見ようによっては今の俺は不幸なのかもしれない。けれどそれを覆せるくらいに、強い気持ちがそこにあった。 「…それでも好きなんだ、あいつのこと」 涙を含んだ声のまま、無理に口角を上げて笑ってみせる。 自分がおかしいのはよく分かってる。わかった上でもハルを好きなのを辞すことはできなかった。 幸せには形が沢山あるだろうし、一般的な幸せの型に自分がはまっているとも思えない。 それでも好きだった。ハルと一緒にいることが、自分にとって最良の幸せであったに違いない。誰かに幸せの規範を決められたくなんてない。 たとえ裏切られる様な何かがあったとしても、それでも俺はハルが好きだ。あんなクズで最低の男だけれど、好きになってしまった自分が悪い。 「…そうですか」 それだけ言うと、朝比奈はゆっくり俺から離れた。 「このあとの授業、僕もサボろうかな」 「は?…なんで…」 「どうせあんたその顔で教室戻れないでしょ。帰りますよ、ほら立てますか」 腕を引かれ、そのまま立たされる。幸い荷物は手に持ったままだからよかったけれど、わざわざ朝比奈まで一緒にサボらせてしまうのは申し訳なかった。 「お前、授業は」 「体育とかだしめんどくさいんでいいです。母親は多分パートでいないんでクソ姉だけいる家に帰すわけにも行きませんし」 不器用に腕を掴まれたまま学校を出て電車に乗り、気づけば朝比奈の家に着いていた。 『あれ、おかえりー早かったね?』 リビングから顔だけ出してそう言う姉の言葉を無視して朝比奈が先に進んでいくから、軽く会釈だけして後に続いていった。 朝比奈の部屋に入ると、朝比奈はすぐにベッドへダイブする。 「おい…制服のままだとシワが…」 「うるせえ、母親と同じこと言わないでください」 「…ありがとな。なんだかんだ言って、やっぱりお前良い奴だよ」 「本気でそう言ってますか」 それがどういう意味なのか分からなくて朝比奈の方を見るや否や、腕を引かれてベッドの上に倒された。 「朝比奈…!いい加減そういう冗談よせって」 またこのイタズラかと軽く睨みつけ、朝比奈の髪が頬に触れたかと思うと次には唇が触れ合っていた。 すぐに顔を離した朝比奈の目は前髪に見え隠れしてよく分からなかったが、泣きそうなようにも見える。 「ああそうですよ。これは冗談で、ただの嫌がらせです…だから」 ゆっくりと朝比奈の顔がまた近くまで来る。押さえつけられているとはいえ抵抗しようと思えばいくらだってできるだろう。 それなのに何故俺は動こうとしなかったのだろうか。驚いて動けなかったのかもしれない。いや、それだけじゃない。朝比奈を拒むという行為が申し訳なくてできなかった。 それと同時に、自分がハルを裏切ってしまったような気がした。 「あ、さひな…」 朝比奈の唇が重なると、確かめるように舌が唇を割って入り込んでくる。それでさえ俺は拒むことを忘れていた。 その舌は不器用に口内を撫でていって、決してお世辞にもそれが上手いとは言えない。舌に開いていたピアスが上顎を刺激して、思わずそれに声を上げそうになってしまった。 ただ朝比奈は必死にキスを続けて、その赤くなった顔にこっちが恥ずかしくなってしまいそうだった。 このままこれを続けてしまったらどうなるのだろう。そんな一抹の不安を覚えて目を閉じると、その時自分の頭の中に浮かんだのはハルの顔だった。 その瞬間今自分が犯してしまった罪に気づいて身を捩り、朝比奈の下から抜け出す。鼓動が速まり、冷や汗が止まらない。 気づいた時にはまた涙が滲み始めていたが、これがどの意味を孕んでいたのかが分からない。 怖かったのは朝比奈なのか、自分の心なのか。 「そんな顔するんだったら、最初から拒んでくださいよ」 「な…んで、こんなこと…」 「嫌がらせだって言ったじゃないですか」 「だからって!」 朝比奈は固く握りしめた拳で部屋の壁を思い切り殴った。鈍く低い音が鼓動を鎮めるように鳴り響く。ベッドの上に座り込んだ俺の肩に、朝比奈は頭を垂れて体重を預けた。 「嫌だと思ったならすぐに抵抗してください。それとも怖くて動けませんでしたか」 「俺は…」 嫌だった。と言ったら嘘になってしまうような気がして、自分が怖かった。 自分が朝比奈を受け入れたとは思いたくない。ただ分からなかった。朝比奈がこのタイミングで嫌がらせをしてくる理由も、抗おうとしない自分も。 「先輩は、男が好きなんですよね。男なら誰でもいいんですか」 「違う、それは違う!」 それだけははっきり言える。そこでようやく、また自分の心と向きあってこの後どうするべきなのかがわかった気がした。 「何が違うんですか!だってそうでしょ…何が違うんだよ」 「男が好きとか…女が好きとかじゃない。俺、あいつのことが好きなんだ」 もう俺はどこに戻ることもできないくらい、ハルのことを好きになってしまっていたんだ。 「けど、あの人のこと好きでいて辛い思いするのは先輩じゃないんですか」 「だからって…好きじゃなくなることなんてできねえよ。まだ、あいつに向き合って話さなきゃいけないことばかりなんだ」 「…なんだよ、あんたもベタ惚れじゃん。面白くねーわ」 朝比奈は俺から離れて、かきあげていた前髪を逆に下ろして顔を隠した。 今前髪の下で朝比奈がどんな顔をしているのか分からない。何故か俺は朝比奈に謝らなければならないと思った。 「…ごめん、朝比奈」 「はぁ?何がですか。つーか先輩が気負うよりも、小笠原さんのほうがあんたに向き合ってちゃんと気持ちの整理つけるべきなんじゃねえの」 「なんでお前がそんなこと…」 「別に、なんとなくそう思っただけです。明日はちゃんと二人の愛の巣に帰れるといいですね」 嫌味ったらしくそう言って、舌に開いたピアスを見せる。ベッドから降りたかと思うと、バッグから取り出した弁当をこの場で食べ始めた。 「…おい、こんな所で食べたらゴキブリ来るぞ」 「うるせえ、また母親と同じこと言わないでください」 俺に黙れとでも言うように、箸で掴んだ唐揚げを俺の口の中に突っ込んだ。 「なんですかその間抜け面。そっちの方が先輩には似合ってますよ」 朝比奈は俺に顔を見せようとしないまま、黙って弁当を食べた。その横で仕方なく俺も弁当箱を開けて食べ始める。 朝比奈の行動は未だによく分からない。あんな嫌がらせをするほど俺のことが嫌いなのかもしれないと思ったが、それにしては優しすぎる気がしていた。

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