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第236話Kneel down

弁当を完食する頃、家の中にチャイムの音が鳴り響く。朝比奈の母が帰ってきたのかとも思ったが、それにしてもやけに早い。 「…クソ、もう来たのかよ」 朝比奈がそう呟いたのに首を傾げていると、階段をバタバタと駆け上がってくる音が聞こえて部屋の扉が勢いよく開け放たれた。 『泰生!やばいなんかめっちゃイケメンがインターホン押してる!私すっぴんだから出れないんだけど!』 「いきなり入ってくんなブス!化粧しても変わんねえだろうが!」 『うるさい!てかあの人泰生の知り合い?!なんで紹介してくれなかったの!私メイクしてくるからもてなしておいて!!』 嵐のように去っていった朝比奈姉を呆然と見送る。朝比奈はゆっくり立ち上がると下の階へ向かっていった。 「おい、誰が来たんだよ」 「あんたの愛して止まないあの人ですよ」 「は…?な、なんでこんなところに」 あまりに予想外すぎて声が裏返る。何故ハルがここを知っていて、しかもこのタイミングで来たのだろう。朝のこともあるし、まだ気持ちに整理が付いていないから何を話していいのかも分からない。止める前に朝比奈は下に降りてしまった。 下からハルと朝比奈が何か言い合いながらこの部屋に近づいてくるのが聞こえる。 先ほど自分は朝比奈にあんなことをされたばかりだからか、冷や汗が止まらなかった。言わなければハルには知られなくて済む。知られたら俺の方こそ嫌われかねない。けれど黙っているのも罪悪感に潰されてしまいそうだ。 扉が開くと、そこには会いたいようで会いたくなかった人物が確かにそこにいた。 緊張のあまり声が上手く出なくて、ただ空気を無駄に吐くだけだ。息苦しくなったのを鎮めるように胸の辺りをぎゅっと掴んだ。 「僕は隣の姉の部屋にいます。多分姉が化粧してるの下の階なんで。じゃあごゆっくり」 朝比奈が部屋を出ていくと、俺もハルも目を合わせてすぐに逸らした。何か言わなくてはいけないのに、お互い何も言えず気まずい空気が流れていく。 「…何しに来たんだよ」 冷たくそう言い放ってしまった。何をしに来たかなんてわかりきっている事なのに、わざわざハルを追い詰めているような気がする。 「ゆ、勇也を取り返そうと思って…?」 「は?」 まずい、自分でも驚くくらい低い声が出た。ハルは普段と違ってまるで蛇に睨まれた蛙のように萎縮してしまっている。 「勇也は俺のものだから…ものっていうのは、そういうことじゃなくてね?」 「はっきり言えよ」 「勇也は俺がいないの嫌じゃないの?俺、ちゃんと勇也のこと支えるし…」 もちろんそれは嫌に決まってる。けれど俺が欲しいのは今のハルの気持ちと言葉だ。いつもみたいにカッコつけた言葉はいらない。 「…もう言うことないのかよ」 しばらく返事のないハルの方をちらりと見ると、何故かその場に膝をつき始めている。 どういうつもりなのか分からずただそれを凝視すると、なんとあのハルが俺の前で跪き額を床につけた。 「な、何してんのお前」 「本当にすみませんでした」 「いいから顔上げろよ、やめろってバカ」 「本当に、本当にごめん…勇也のこと大切にしたいって言ったのに全くできてなかった」 そうだ。自分のことを大切にしなかった俺にハルがそう言ってくれた。そう言ったのに、今回のようなことが起こってしまったんだ。 「朝比奈くんと故意でキスした訳じゃないって分かってたんだ。分かってたけど…もしもって思うと怖くて、勇也の話を聞かずに逃げてた。ごめん」 「い、いいから…いや良くねえけど、土下座すんのやめろ」 「そんな簡単に許してもらえるとは思ってない。けど本当に反省してるから…これからもっと勇也のこと大切にするから」 上目遣いにそう言うハルに思わず絆されてしまいそうになったけれど、まだ話は終わっていない。 「勇也の話もちゃんと聞きたい、俺に聞かせて。もう逃げないから、お願い」 「だから…いきなり嫌がらせで、されて…言えなかったのは、朝比奈に写真撮られたからで」 「俺達が手繋いでる写真だよね。俺も朝比奈に見せられたけど…やっぱりあいつ脅してるじゃんふざけんなよ」 いつの間にハルと朝比奈は話をしたのだろう。そうか、俺が裏庭で眠っている間だ。その間に二人は一体どんな会話をしたのか。泥沼のような気しかしない。 俺が朝比奈の家に泊まっているということも知られてしまったとしたら。そうしたらハルはもっと俺を怒るだろうから、この様子だと知らないのだろうか。 「脅されたのとキスされたのは関係ない…ただ、もし変にあいつに危害を加えて俺達のこと言いふらされたら…って、思った」 「俺は構わないって言いたいところだけど、勇也は優しいから。俺のことも思って黙っててくれたんでしょ」 自分だけならまだしも、ハルまで同性愛者だと白い目で見られるのは嫌だった。 ただ、朝比奈も言いふらすつもりは特に無いようであったし、反省もしているから今更あまり責められない。 「でも、黙ってた俺も…悪い、から」 「そんなことないよ。怖い思いさせてごめん、たくさん傷つけた。俺、これからもちゃんとするから、悪いところ頑張って全部直すから、だから捨てないで…勇也がいないとダメなんだ」 ハルがいないのは嫌だという思いは自分の中にあった。そのハルが、いつも格好つけていたあいつが、俺がいないと駄目だとこうも素直に言っている。 相手への征服感からなのか、少しばかり高揚した気分になった。ただ、朝聞いてしまった女生徒の話が頭をよぎると、そう簡単に今の話を信じられなくなってしまう。 「…朝、他のクラスの女子が、家行ったって言ってた」 「誤解なんだよ!いや、確かに家の中に入れたのは事実なんだけど…勇也の情報持ってるって言うからつい…でも、本当に何もしてないしすぐに帰したから」 ハルの言っていることが本当なら、俺の早とちりだったのだろうか。確かにあの時家で何をしたかまで聞いていた訳では無い。信じるか、信じないか。 「確かに、過去にあの女と寝たことはあるよ。こんなこと言わなければ勇也は知らなくて済むかもしれないけど、だからこそ俺は今…」 過去に関係があったと聞かされて、つい目頭が熱くなってくる。唇を噛んで我慢しても、また涙が出てしまいそうだ。 「ゆ、勇也ごめん…けどね、もう関係はとっくに解消してるし、何もやましいことないから」 慌てふためいたハルは、床に立てひざをついて俯いた俺の手を取った。 「俺が今好きなのは勇也だけだよ。本当に勇也が好きで…だからちゃんと謝りたくて…ごめんね、ごめん。大好きだよ、勇也」 「好き好きうるせぇんだよ…」 そう冷たく言い放った俺にハルは寂しそうな顔をしたものの、俺が表情をうまく繕えず真っ赤になってしまったのを見たからかすぐに笑顔を取り戻した。 「勇也は?…やっぱり俺のことは嫌い?」 「そ、それより…その女が言ってた俺の情報って…」 「え、ああ…朝比奈くんと勇也を、裏庭で見たって話だった。別に面白くも何ともなかったけどね、知りたくなかったし」 「え…」 ハルはそう言って笑って見せるけど、俺はまた鼓動がいやに速くなるのを感じた。 「勇也、昨日はどこに泊まってたの?」 それをすぐに答えることのできなかった俺は、心の中で一人悶々と葛藤を続けていた。

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