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第237話Kneel down②

どこに泊まっていたか。その答えはここ、朝比奈の家であるのだが。ハルがそんなことを許すはずない。そもそも、元の原因である朝比奈の家に泊まるだなんておかしいに決まっている。 「…答えられない?」 また声が出ない。ハルは正直に女が家に入ったことを認めたし、今は俺の話をちゃんと聞こうとしてくれている。 嘘をつけば自分がさらに苦しむことになるというのは分かっていた。 「…朝比奈の、家に…泊まってた。けど、なにか意味があったわけじゃ、なくて…」 ハルの手が伸びてきて、また言い訳だの何だのと叱られながら酷いことをされるのではないかと思い目を瞑る。しかしその手は、予想外にも俺の頭をふわりと撫でただけだった。 「隠さないでくれてありがとう。なにかやましいことがあったわけじゃ無いんだね。言うの嫌だったでしょ、俺すぐ怒るから」 その優しい手に思わずまた涙が滲む。最低なこの男の手が自分の頭を撫でるのが、俺はどうしようもなく好きだった。 「あーあ、つまんねえの。そんな簡単に仲直りしないでくださいよ」 俺もハルもその声に驚いて辺りを見渡すが、朝比奈の姿はない。「こっちです」という声がまた聞こえて、その声のした上の方を仰ぐと朝比奈がロフトから顔を出していた。 「こんなところでおっぱじめられても困るんでさっさと帰ってください」 「朝比奈くん、聞いてたんだ…もう分かったでしょ、勇也はあげないから」 「うるさいです。欲しいなんて言ってませんから、別に」 朝比奈に今の会話を聞かれていたことなんてどうでもよかった。ただ、目が合った朝比奈が意地悪そうに自身の唇に人差し指を当てて唇の端を上げたのを見て、心臓がドキリと跳ねる。 まだハルには言っていないことがある。先程朝比奈とまたキスをしてしまったこと。俺はしばらくそれを拒まなかったこと。朝比奈はそれを二人の秘密だとでもいうようにほくそ笑んでいるように見えた。 あれは嫌がらせで、勿論やましいことなんて無い。だから報告する義務も無いはずだ。言わなければハルは知らないままでいられる。 「勇也、俺と一緒に帰ってくれる?」 そう言ってハルが優しく手を差し伸べる。俺はゆっくりと手を伸ばしたものの、その手を取ることができなかった。 「勇也…」 またハルの悲しそうな顔。そんな顔をさせたくない。言わないと。いや、言って何になる。ハルに嫌われてしまうリスクがまた高まるだけではないか。けれど言わなかったら俺はずっとこの罪悪感を胸に秘めたままハルの隣にいることになる。 「ハル…ごめん、俺…」 「なに、どうして謝るの?ちゃんと言ってくれたし、今日謝るのは俺だけで充分だよ」 「そ…じゃ、なくて俺…」 言わなければ誰も嫌な思いをしない。それでも言わなくてはならない気がしてしまうのは何故なのだろうか。 「勇也?」 「俺…また、朝比奈とキス…した」 「え…?」 その聞き返す声はハルのものであったような気もするし、朝比奈の声も重なっていたかもしれない。 自分でももっと言い方があっただろうと思うが、混乱と焦りが出てしまいついこう言ってしまった。 「また…って、なんで?いつの話?また無理矢理されたんじゃなくて?」 ハルは動揺を隠せないといったように俺の肩を掴んでその指先に圧をかける。 「無理矢理だったかもしれないけど…俺は、あのときしばらく抵抗しなかった」 「なんで…なんで、そんな」 ああ、もう終わりかもしれない。どうして急にこんなことを言ってしまったんだろう。真実を伝えたところで、ただ自分の首を締めることになるだけなのに。 「朝比奈が、悪い奴だって思わなくなってたから…もうよく分からなくて、でも…目閉じたらお前の顔が浮かんできた。だから俺、お前のこと裏切ったことになるし、だけど俺は…!」 頭がこんがらがってうまく言葉を紡げない。焦れば焦るほど眉根に力が入り勝手に目の端から涙が零れそうになる。 「もう、いいよ」 ハルのその言葉が、自分を手放す合図のように聞こえてしまってその顔を見上げる。 顔を見るよりも先にハルの胸に抱かれて、久しいようなその温もりがより一層苦しさを増していった。 「過程がどうであっても、大事なのは最終的な勇也の気持ちだよ。はっきり言ってくれれば、もうそれで充分」 俺の気持ち。怒っても仕方の無いようなこの事実を、あのハルが落ち着いて受け止めようとしてくれている。 俺の気持ちは、最初から最後まで何も変わっていない。 「…す、きだ…ハルが」 ぽろぽろと言葉と一緒に涙が落ちていく。ハルはそれを指で拭いながら暖かい眼差しで微笑んだ。 「うん、ありがとう」 潰されそうになっていたこの気持ちを、大事に包み込んでくれた。 痛いくらいにきつく抱きしめられて、ハルの匂いに満たされる。 「うっざ!人の部屋でそういうことしないでください。大体なんなんですか双木先輩は」 上から降ってきた声の方に目を向ければ、ロフトから身を乗り出した朝比奈の赤らんだ顔が見えた。 「僕のこと拒むならもっとちゃんと拒んで下さいよ!そんなこと言われたら…諦めつくものもつかないじゃないですか!」 「聞いてなかったの?勇也は俺のこと選んだんだけど」 「聞いてました!クッソ…なんで僕が双木先輩なんかにこんな…今そっち行きますから!まだ帰んなよ!」 ロフトを朝比奈が降りようとする前に、ハルはロフト下の梯子を取り外して朝比奈が降りられないようにした。 「あっ、何するんですか!降りられないんですけど!」 「一生降りてこなくていいよ」 「ハル…お前小学生じゃねえんだから」 ハルに腕を引かれ部屋を出ると、隣の部屋から朝比奈が出てきて行く手を阻む。 「小笠原さん、僕は諦めないことにしました。絶対に奪ってやる!」 「はは、やれるもんならやってみろよ童貞」 「ど、童貞って言うな!」 二人が何の話をしているのか分からなくて置いていかれている。ハルの服の裾を軽く引っ張ると、優しく微笑んでまた俺の手を取った。 朝比奈の制止を無視して階段を駆け下り、家を出る。しかしすぐに朝比奈が追いついて、玄関から扉を開けたままこちらに向かって叫んだ。 「双木先輩荷物忘れてます!洗濯したものもちゃんと持って帰ってください!」 そう言えば何も持たずに出てきたなと思い出し、朝比奈の元へ駆け寄って荷物を受け取った。 「朝比奈、本当にありがとな。おばさんにもよろしく」 「…あんた、そんな気の抜けた笑い方するんですね」 「ごめん、気持ち悪いよな」 「別に…その、か、かわ…」 朝比奈がゴニョゴニョと何か言おうとしているところで、後ろからハルの俺を呼ぶ声が聞こえてくる。 「なんだよ早く言え」 「別に何も無いです!泣いてるよりマシなんでずっとそのアホみたいな顔晒してヘラヘラしててください!」 一方的に扉を閉められ首を傾げていると、後ろからハルに腕を引っ張られてバランスを崩す。 けれどそれもハルに抱き止められ、すぐには離されずぎゅっと抱きしめる腕に力が入った。 「俺がこんなこと言える立場じゃないって分かってるんだけど、俺以外の所にいかないで。俺の側にいてくれるようにこれから頑張るから、勇也は俺だけ見て」 ハルにしては自信なさげなそのか細い声に、思わず胸が締め付けられる。ハルが捨て犬のような目をするから、ついつい自分からも腕を回して抱き締め返してしまった。 「立場って…そんなこと言えるのお前だけだろ」 「けど許されないようなことしたの俺の方だから」 「だって俺はずっとお前の…だ、し…」 うっかりそう漏らしてしまった口を押さえる。熱を持ち始めた顔を見られたくないがためにハルを突き飛ばすようにして前を歩き始める。 「い、今のもう一回言って」 「なんも言ってねえし」 足早に駅へ向かう。まだハルのことを完全に許している訳では無いから、甘やかしすぎたくない。しかしどうも好きという気持ちがそれを邪魔しに来る。 そもそも俺の方だって本当はハルに許されるはずのないことをしたような気がする。正直に言えただけまだいいが、きっとハルの心中はまだ曇っているだろう。 小走りでやって来て横に並んだハルと、微妙な距離感のまま二人の家へと歩を進めた。

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