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第242話Disperate
結局昨日のうちには何も起こらず、俺達の警戒も特に意味を成さなかった。どうやら女は真田や上杉と同じクラスであったようだが、やはり昨日は特に不審な動きもなかったらしい。
流石にもう懲りて諦めたのかもしれないという考えも浮上していたが、そんなものはいとも容易く打ち破られてしまった。
「なんだよ、これ」
朝学校へ着くと、妙に自分の教室が騒がしかった。俺もハルもなんとなく悪い予感はしていた。胸が嫌にざわめくのを感じる。
教室には他クラスの生徒も何人かやって来ていて、俺とハルが教室へ近づいた瞬間にその場にいた全員が急に静かになってこちらへ振り返った。
大勢の人間の隙間から見えるその黒板に貼られたもの。いつ撮ったのかは分からない、ただそこに貼られた写真はしっかりと俺がハルに唇を寄せ合う様が写し出されていた。
時が止まったかのように感じる。何かを考える前に、その人混みへ割って入り紙にプリントアウトされた写真をぐしゃりと片手で潰して剥がした。
そこからどうしていいのかが分からない。逃げ出す隙がある訳でもなく、周りから痛いほどに刺さる視線が俺を責めていった。
「ごめん、通して」
ハルが俺の元までやって来てそっと俺の肩に触れる。周りが嫌悪と好奇の視線を向けているのは何も俺だけではない。ヒソヒソと俺達のことを話す声がヘドロとなって絡みついてくるみたいだ。
ハルを助けるためには。それだけを考えて、俺は肩に置かれた手を払った。
「これは、俺が無理矢理やっただけだ」
俺のその言葉に周りは更にざわつく。ハルは言葉を失ったように口を半分開いて、伸ばした手を引っ込めることもなくその場に静止した。
『双木ってゲイなの?』
誰かがそう言った。それは俺にとって軽蔑の言葉にも聞こえたし、冗談半分にも、ただの興味本位にも聞こえる。どれにしたって自分の心を苦しめることには変わりなかった。
けれど、今俺がここで言うべきなのはただ一つ。
「そうだよ。こんな奴が同じ学校にいて悪かったな、気持ち悪いだろ?けど小笠原は俺にそういう気ないから」
自嘲気味にそう言って、ようやく動き出した足で教室の外へ足早に出ていった。早歩きだったのは段々と走るのに変わってきて、周りもよく見ずにそのまま屋上を目指して嫌に長く感じる廊下を走った。
屋上には雨が降りしきっていたけれど、そんなことも気にせずに屋上へ出て扉を背にしゃがみ込んだ。
いつかこうなってしまうことを予測していなかった訳では無い。現に何度もその危機が訪れていた。それでも何とかなっていたのは、周りの人間が寛大だったからだ。
けれど今回はそうもいかない。写真の周りに群がっていた人間はきっと殆どが偏見を持っている。それは無理もないことだ。だって俺達は普通じゃない。
普通の規範なんて無いと思いたいけれど、それを定めようとしてしまうのが人間だ。そして、そこから外れた者を除外しようと思うのもきっと人間の性だろう。
何度もこの問題に向き合うことになるだろうというのも分かっていた。しかしそれさえ自分達なら乗り越えられると思い込んでいたのも事実だ。
これでハルは助かった。ハルはただ一方的に俺に言い寄られただけだ。そしてそれでも尚仲良くしてくれる友人。学校の中だけでならこれで充分ではないか。家に帰れば恋人に戻れるのなら、それでいい。いいはずなのに、まだ胸が痛むのは何故だろう。
ふと、背中についた扉が引かれて咄嗟に立ち上がった。振り向いたらそこに居たのはやはりハルで、何を考えているのか読みとれないが俺の方をじっと見つめている。
「勇也、早く戻らないとホームルーム始まる。そんなとこにいたら風邪引くよ」
「戻れるわけねえだろ」
「じゃあどうするつもりなの、これから」
返す言葉は俺の口から出てこなかった。
いっそ学校に行かなければいい、きっと誰も迷惑しないから。そんなことを言ったらハルは怒るだろう。けれどもうここまで来てしまったらそれしかないのではなかろうか。
「お前は教室帰れ」
「俺じゃなくて、勇也のことを聞いてるんだよ」
ハルが一歩進み屋上へ出て、俺の前に立つ。そんなところにいたらハルまで濡れてしまうのに、それも気にせず雨に打たれていた。
「もう戻れない」
「どうして決めつけるの」
「決めつけてなんかない、だって当然のことだろ」
「俺は勇也にそういう気しかないけど」
更にハルが一歩進んで詰め寄る。それから逃げるわけにも行かず、ただその場に立ち竦んだ。
「学校にはもう行かない…もう行く意味もないし、家だけで俺は充分だから」
「そう思うのは、学校が勇也にとって大事だから?」
「は…?その反対に決まってんだろ」
なぜハルがそんなことを言ったのかは分からない。俺にとって学校なんてどうでもいい。元々好きではなかったし、ただ母親の言葉に縛られていただけだ。今はもう、なんの未練もない。
「友達ができて、文化祭までちゃっかり参加してさ、学校に対する印象って変わったと思うけど」
「変わってない。どうでもいいんだ、もう。これ以上お前に迷惑かけたくねえんだよ」
「二年生までしっかり学校来て毎日屋上で皆と弁当食べておいて、どうでもいいってことないと思うけど。今更来なくなるの変でしょ」
「変って…変なのは俺達の関係だろ」
言ってしまってからしまったと思ったけれどもう遅い。ハルはずっとこれを否定し続けてくれていたのに、それを俺は簡単に壊した。
「勇也は、変だと思う?」
「周りからしたら変なんだよ。お前がどんなに違うって言ってくれたって、それで偏見が消えるわけじゃない。何も変わらない」
「勇也がどう思ってるか、ちゃんと聞かせて。今俺は勇也と話してるんだよ」
掴まれた片腕も振り解けない。迷惑をかけたくないと思いながらも俺はハルを拒むなんてことできなかった。
だって、好きだから。
「俺は…」
「勇也の気持ちも、俺の気持ちも変なものなのかな」
「変じゃ…ない」
目の周りに力が入る。その力を今抜いてしまえば、きっとまた泣いて情けない面を見せることになるだろう。それなのにハルは優しく俺のことを抱き締めるから、涙は簡単にハルの胸元へ染み込んでいった。
「そうだよね、俺もそう思う」
「俺達がしたことって、そんなに悪いことなのか」
「悪いことじゃないよ」
「じゃあどうして…ごめん、ごめんハル」
自分が男じゃなかったらハルを巻き込まずに済んだ。自分がハルを好きにならなければこんなことにはならなかった。
本当は学校にだってまだいたい。最初の生きる気力すら無かった頃の俺とはもう違うのだから。
「勇也が謝る必要なんて無い。大丈夫だよ」
「何が…なにが、大丈夫なんだよ…今更何言ったって駄目に決まってる」
「そうだろうね、否定的な意見はそう簡単に変わらないし、理解されるのは到底無理だと思う」
あっさりとそう言い切ってしまうハルに少々困惑する。じゃあ、本当にもうどうすることも出来ないではないか。
ハルは今まで通り学校へ通い、俺が学校へ行かなければいずれこの騒ぎも風化していく。
風化したからといってまた戻れるわけじゃない。それでいいと思い込むほかなかった。
「お前は…怖くないの」
「怖いよ。怖いに決まってる」
ハルだって同じなんだ。それは前から気づいていた。それでもハルが俺達の関係を隠そうとしないのは何故なのだろう。
「なら無理してお前まで辛い思いする必要なんてないだろ」
「隠し続けることには限界があると思う。それに、勇也ばかり犠牲にするわけにいかない」
「これ以上事を荒立てるのか。もういいって俺が言ってんだよ」
若干投げやりに声を荒らげてしまった。何をしても無駄だと分かっていて何かする勇気が俺にはない。
「俺にもちゃんと勇也のこと大切にさせて、勇也のこと守らせて」
「けど、もう…」
「人に理解させるのはきっと難しいけど、認識はしてもらえると思う。こういう形もあるんだって」
手を引かれて屋内に連れ込まれる。髪や服から滴った雫が、足元の床に水溜りをつくっていった。
ハルがポケットから取り出したハンカチで優しく顔を拭いてくれる。
「黙ってたら俺達が異端なんだって自分で認めることになる。そんなの嫌でしょ?だからちゃんと言おう」
「そんなことしたらお前まで何か言われるんだぞ。今まで通り人から好かれることも無くなるかもしれない」
「勇也がいてくれればそれで充分。だから戻ろう、教室に」
止めないと駄目だと頭では思っているのに、足は勝手にハルに連れられるまま進んでしまう。あれだけ外面を作って完成されてきていた小笠原遥人が、もういなくなってしまうかもしれないのに。
一度立ち止まって、俺の腕を掴んだまま少し前にいるハルの肩に額を寄せる。
「本当に…俺、だけで…いいの?」
「当たり前だよ」
そう言って頭を撫でてくれるハルの手の温もりを、何故だか信じようと思った。
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