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第260話Coming Summer③
「お前、着ねえの」
つい声に出したのはそんな言葉。ボソリと呟いただけであったが、すぐに察したのか信代さんは近くに掛けてあった浴衣を指さす。
「遥人くんのはこちらよ。黒をベースにして、吉原つなぎの柄がラインで入っているの。若い人はこういうデザインの方がいいかしらと思って」
信代さんの口から横文字の言葉が出てくるのに違和感があるが、掛けられていた浴衣はハルに似合いのものだった。
本人が言っていた通り何を着ても似合うのかもしれないけれど。
「なに、見たいの?」
「そういうんじゃねえし、お前も着てみなくていいのかって…」
「俺は大丈夫だよ、花火大会までのお楽しみね」
別に不満だとかそういう訳じゃないけれど、ハルの浴衣姿を期待していなかったと言えば嘘になる。当日見れるならそれでいいのかもしれない、今見てしまったら人前で顔を赤らめてしまう自信があった。
「…お二人共、幸せそうね。主人から話を聞いた時は少々不安でしたけれど、安心しましたわ」
「上杉さんは、今はどうしてるんですか」
「私にはさっぱり…私と謙太は巻き込みたくないんですって。ほんと、勝手な人」
そう言って溜息をつきながらどこか遠くを見つめるその表情が、一瞬だけいつかのハルの父と重なって見えた気がした。
「信代さんが大切だからそうしてるんだと思いますよ」
「分かっていますとも。あの人に嫌われている気はしないけれど、一体私の中に誰を見ているのやら…良くないわね、こんな話」
なんだか少し気まずい雰囲気になってしまったところで信代さんが顔を上げ、パッと控えめな笑顔に戻る。
「お代は結構ですわ、謙太と仲良くしてくれているみたいですし。今度は謙太とも一緒にいらして下さいね」
「そんな、いいんですか?」
「ええ。その代わりと言ってはなんだけれど、またお着物のモデル頼んでもいいかしら」
「もしかして、最初からそれが狙いですか?」
信代さんは着物の袖で口元を隠してにこりと微笑んだ。そもそもハルが着物のモデルをしていたなんて俺は知らないから、その新情報に思わずハルの方を見やる。
「いいじゃありませんか。いい加減今度こそカメラマンはプロの方を呼びますから」
「モデルもプロに頼めばいいじゃないですか」
「あら、遥人くんが自分よりいいモデルなんていないって仰ってたのに」
いかにもハルが言いそうなセリフだ。それだけの大口を叩けるレベルの容姿を持ち合わせているから誰も文句は言えない。
「そんなこと言いましたっけ…?まあいいや、カメラが趣味の知人もいるので、予定があれば連れてきますね」
「まあ素敵。花火大会でお二人が浴衣を着た写真も是非見てみたいわ。宜しく頼みますね」
「はい、それじゃあまた。お元気で」
「待てよ、着替えさせろって」
浴衣を脱いで制服に身を包み、ようやく店を出る。ハルの言う通り気品があっていい人だけれど、隙がなくてどこか深入りしずらいような印象を受けた。
「お前、モデルとかいつからやってたの」
「中学生の時だよ。信代さんに会ったのもその時が初めてだったかな」
スマートフォンの画面を見せられると、そこに表示されていたのは先程の呉服屋のサイトだった。どうやら通販もやっているらしく、メンズの着物のページにハルが載っているのがわかった。
「髪…黒いな、ピアスもしてない」
「染めさせられたんだよ。初めは嫌々やってたけど、信代さんが怖くて…段々俺も乗り気になったって感じかな」
あの穏やかな信代さんが怖いというのはよく分からないが、黒髪のハルが新鮮でついじっと眺めてしまった。
「そんなじっと見ないでよ、照れちゃうから」
「そんな見てねえし」
花火大会はもう明日に迫っている。知り合いに遭遇してしまうことを想定していない訳では無い。というか、ここの近くでやるのだから会わないわけがない。
勿論怖い気持ちは少しある。けれど漠然と思ってしまうのだ、自分達なら乗り越えられると。
「俺ね、絶対りんご飴食べるんだ」
「ああ、祭りでも行かないと食わないもんな」
「勇也は行ったことあるの?」
「小学生んときに一回…親に小銭だけ握らされて家から追い出された日に丁度祭りやってて。低学年のときはまだダチもいたし…」
まずい、反応しづらい話をしてしまった。ハルの顔を見ると、気まずいというより悲しそうな顔をしている。
「酷いね、それ」
「別に…あれくらい、どうってことない。次の日には家、入れたし」
家の前に到着したので、足早に駆けて玄関の扉を開き中に入る。いつもは揃えるはずの靴も余裕がなくてそのままだった。
「次の日って…その日どうしたの」
「玄関の外で待ってた、けど…そういうの慣れてたし、本当に何も思わな…」
「勇也」
不意に後ろから抱きしめられる。やめてくれ、自分が余計惨めになる。こんなこと、本当になんでもない。もっと傷ついたことは何度だってあった。だからこのくらいで俺が弱音を吐くわけにはいかないんだ。
「本当は辛かったんだろ。辛い時は辛いってちゃんと言わないと」
「慣れ、てた…から、辛くなんか」
「それは慣れていいものじゃないよ。辛かったんでしょ、寂しかったんでしょ?」
さらに強く抱き寄せられて頭を優しく撫でられる。簡単に涙が出てしまう、ああ嫌だ。
泣きすぎると涙は枯れてしまい、本当に泣きたい時に出てこなくなるらしいなんて話を思い出した。
「ごめ…なんで、涙…止める、から」
「いいよ、泣きたい時は泣きな。泣いちゃいけない理由なんてないんだから。勇也が辛い時は、俺がこうやって受け止めるから」
「俺…泣いてばっかで」
ハルは正面に回ると、何も言わずにもう一度俺を抱きしめた。ハルにはついつい甘えてしまう。そのせいで、今まで一人で耐えられたことも耐えられなくなってしまった。ハルのせいだ。
「つら…かった…」
「うん、辛かったね。だから明日は、辛かったのを塗り替えて、楽しいものなんだって思ってほしい」
「ハル…」
「ん?」
顔をあげると、ハルは俺の目に溜まった涙を指で掬いとった。本当はそうして欲しかった訳では無いけれど、察してくれると思っていた自分がアホらしい。
「ちがう」
「え、なに?」
「ん…」
目を閉じるとようやくその真意に気づいてくれたのか、優しく口付けをされた。
最近になってようやく自分からハルに甘えられるようになった気がする。といっても、自分から甘えておいてすぐ恥ずかしくなってしまうのが難点だったが。
「明日は楽しもうね、二人きりで」
ハルの胸に擦り寄って、小さくうんと返事をした。
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