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第272話Ocean②

ズボンの裾を捲りあげて足首まで海に浸かる。もう少し、もう少しと貪欲になって海の中に入ると、顔に海水が飛んできた。 「…ふざけんな」 ハル相手なら容赦はしない。脚を蹴りあげて水をハルに飛ばす。負けじとハルも水をかけ返すが、どう考えても普通の水の掛け合いでは無い。夕立も相まってお互い頭からびっしょり濡れてしまった。それでも少し蒸し暑いくらいだ。 この状況があまりにもおかしくて笑ってしまう。不意によろけて海の中に尻もちをついた。 「ごめんごめん、大丈夫?」 ニヤリと口の端をあげ、伸ばしてくれたハルの手を掴んでそのまま海に引き込む。 不意をつかれたハルは俺の隣に倒れ込んで小さな飛沫をあげた。 「ちょっと勇也〜下着までびしょびしょなんだけど」 「はは、お揃いだな」 「あ、ちょっとどこ行くの」 また俺を海に引き込もうとするハルから小走りで逃げる。海に足をとられて少し進みづらい。砂の上まで上がって後ろを振り返ると、ハルは何故か必死な形相で俺の方まで走ってくる。 遊びにそこまで必死になる理由がわからず立ち尽くすと、俺に追いついたハルが思い切り俺の体を抱き締めた。まるで俺が消えてしまうかのように、離れていかないように大切に、大切に。 「ハル、苦しい」 そう言ったのにハルは聞き入れることもなく、更に縋るように強く抱きしめられる。 止みつつあった夕立にさえ掻き消されそうな声でハルが何か呟いている。その声も腕も、何故か少し震えていた。 「勇也が、いなくなるような気がして」 「何言ってんだよ、ここにいるだろ」 「俺から離れないで…お願い」 「離れるってそんな大袈裟な…」 冗談で言っているのかと思ったが、この様子ではそうでないらしい。ハルは俺が夕立に攫われてしまうとでも思ったのだろうか。 そんな夕立もいつしかパタリと止んでしまっていた。まだ明るかった空も、そろそろ眠りにつく準備を始めている。 「ハル、俺のこと見ろ」 虚ろな目をして顔を上げたハルに、背伸びをしてそっとキスをする。わざわざ周りに人間がいないかなんて確認はしていなかったけれど、いたとしても気にしたくなかった。 「勇也…」 ハルが顔を上げた時、夕日が燃えた。俺たち二人の顔に赤い火を灯していく。額を合わせて、もう一度確かめるようにキスをした。 惹かれるように海に沈んでいく夕日を眺めながら、俺までなんだか感傷的な気分になってしまう。 「何かあったのか」 「ううん、取り乱してごめん。なんでか急に不安になっちゃって」 濡れた俺の髪の毛をハルが手でとかしながら掻き上げる。露わになった額にそっとキスを落とされた。 「不安になるのはよく分かる、俺もそうだしな」 「勇也は、ずっと傍にいてね。もうどこにも行かないで」 「分かってるって…ほら、もう夕日が沈む」 夕日が海にすっぽりと隠れ、空はようやく暗くなっていった。 静かにたゆう波がハルの大きな瞳に映る。それを俺はじっと眺めていた。確かに俺達は一緒にいるのに、ふと消えてしまいそうに感じるのは何故だろう。 この夏が最後なんてそんなはずはない。来年だって俺達には夏が来て、また新しい気持ちで春を迎えるんだ。 「世界が本当に俺達だけならいいのに」 「ここだけならそうかもしれない」 「そうだね。じゃあどれだけイチャついても大丈夫だ」 「…今は、そうだな」 今だけというのを儚く思いながらも、お互い濡れた体を抱き締め合った。 抱き締めれば抱き締めるほど、何故かそれは泡のように消えてしまいそうになる。不用意に触れれば消えてしまうのを分かっていても、無くさないようにと手を出してしまうのだ。 この不安は一体どこから湧き上がってくるのだろう。ひたすらに今の幸せが逃げてしまうのが怖かった。 「なんでだろ、満たされてるはずなのに。どこかに隙間ができたみたいで凄く寂しいんだ」 「俺が埋める。ずっとハルの傍にいる」 「…俺もずっと勇也の傍にいるよ」 自分たちに暗示するように言葉を掛け合いながら、ぎゅっと手を握った。 「…もう帰るか?」 「でもこれじゃ電車に乗れないね。タクシーも無理そう」 「この時間じゃすぐ乾かねえし…俺がまだ遊ぶとか言ったからだよな、悪かった」 「いいんだよ、はしゃいでる勇也可愛かったし」 とりあえず靴と荷物を置いていた場所まで戻って靴を履く。少し砂が入ってしまったのが気になるがしょうがない。 ハルのスマートフォンの画面を覗くが、虎次郎やその下っ端達の連絡先で指を止めたあとまたスライドしていく。 「多分上杉さんとこは忙しいよね、他に誰か…」 「父さんは…お前の」 「父さん?あの人も今忙しいと思うけどどうなんだろ…ダメ元でかけてみるか」 前に比べてハルはよく父親と連絡をとるようになっていた。というか、とらないとハルの父が寂しがるからせざるを得ないらしい。 「もしもし父さん?俺だよ…いや詐欺じゃないって、遥人。実は今…」 ハルが父親とこんな明るい表情で話せるようになってよかったと思う。一時期メールを見るだけでも嫌そうな顔をしていたというのに。 ハルの父である綾人さんはとてもいい人だ。ハルのことをしっかりと愛しているのがこちらにもわかる。そもそも俺達のことを認めてくれているのだからいい人なのは当たり前だ。 「うん、ありがとう。また後で…勇也、父さん迎えに来てくれるって」 「本当か?でもお前の父さんの車って…」 確かハルの父はとても高そうな外車に乗っていた気がする。あれを濡らしてしまったらと思うと肝が冷えた。 「一番安いので来るんじゃない?それにタオルとかも用意してくれるってさ」 「そ、そうか」 一番安いのということは何台も持っているということか。確かにあの家なら自然なことかもしれないが、とてもではないがあの人が車好きに見えなかったので意外だった。 三十分程してハルの父の車が見えた。ひと目見てそれと分かったのは、それがいかにも高そうなものだったからだ。 「双木くん、久しぶり。タオルで体を拭いたらそのまま乗っていいよ。シートにもタオルを敷いてあるし、これは古い車だから気にしないで」 「あ、はいお久しぶりです…ありがとうございます、わざわざ」 高校生が海で水遊びをしていることに関しては何も言わないのだろうか。そっと車に乗り込んで、何も言わずハルと手を繋いだ。 「シートベルトをした方がいいよ。濡れるのは気にしなくていいから」 「あ、はい…ハル、一回手ぇ離せ」 「え?ああごめん」 俺達がシートベルトをするまでハルの父は黙って待っていてくれた。そしてエンジンをかけてから、少しそわそわしだして俺達の方に声をかける。 「その…ハルっていうのは遥人のことなのかな?」 「え、あ、すみません…あの、そうです」 何がすみませんなのか自分でもよく分からない。改めて他人から指摘されると真田の時同様恥ずかしくなってしまう。 「そうか…いいね、そういうの恋人らしくて」 「そう?あだ名みたいなもんでしょ、まあ勇也にしか呼ばせてないけどね。父さんは無いの、あだ名とか」 「…恥ずかしい話だが、ある人からアヤと呼ばれていたね。女の子みたいだろう」 そう言ってからようやく車が発進した。綾人から取ってアヤならハルと原理は同じだ。俺としては、春みたいなやつという意味も含まれていたが。 「ある人って?」 「なんでもいいだろう、昔の話さ」 「初恋の人とか?」 「…どうだったんだろうね」 僅かに見えたハルの父の横顔は、やはり上杉の母である信代さんと纏っている雰囲気が似ている気がした。

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